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 同日夜、日本政府は「極めて遺憾であり、北朝鮮の行為に対して厳重抗議する」との官房長官コメントを発表する。そして翌9月1日、国交正常化交渉の開催、食糧等の支援およびKEDOの進行をそれぞれ見合わせる、日朝間のチャーター便の運航許可を取り消し、その後の運航も不許可とするなどの制裁措置を発表した。合わせて日本独自の情報収集能力を高める方策を検討すること、弾道ミサイル防衛システムの技術研究を引き続き検討し、「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)関連法案などの早期成立・承認を期待することを発表した。

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 北朝鮮による挑発はさらに続く。99年3月、日本の当局は能登半島沖に不審船が存在することを察知した。海上保安庁、自衛隊が追跡し、ついには海上自衛隊に海上警備行動が発令されるまでに至った。結局は取り逃がしたが、警告射撃や威嚇爆撃にもかかわらず逃走する不審船の姿に国民は大きな衝撃を受ける。この不審船が北朝鮮の港に戻っていったことは明らかである。さらにはこれ以外に、北朝鮮による覚せい剤の密輸疑惑も発生していた。

 北朝鮮は「凍土の共和国」、ミステリーな国、いつ崩壊するかわからない飢餓の国から、日本国家・国民に害を与える危険な国へと認識が変わっていく。長年平和に慣れてきた日本国民に「国家安全保障」の重要性を覚醒させたのは、皮肉にも北朝鮮であった。この後日本は周辺事態安全確保法を成立させ、弾頭ミサイル防衛システムの日米共同研究を開始し、独自の情報収集衛星を立ち上げる。さらに拡散に対する安全保障構想(PSI)に参加するなど、安全保障の強化に取り組んでいく。北朝鮮に対しては「対話」と合わせて「抑止」「圧力」が重視されることになっていく。

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米朝関係――緊張から急接近

 1998年8月のテポドン・ミサイル発射は米国にも衝撃を与える。北朝鮮が米国本土にまで届くような弾道ミサイルの開発を着々と進めていることが判明したのである。また、ノドン・ミサイルのような中距離ミサイルは日本の安全保障の脅威となっていたし、ミサイルの中近東などへの輸出は同地域の不安定化の要素となっていた。ミサイルの開発や輸出を規制する枠組みは米朝間では何ら存在していなかったため、米国としてこの問題への対応を迫られる。

 またその時期、核施設の集まる寧辺の北西、平安北道の金昌里に地下の秘密核施設があるのではないかという疑惑が発生した。「合意された枠組み」に反し、北朝鮮が秘密裏に核兵器開発を続けているのではないかという疑惑である。北朝鮮の核・ミサイル開発の脅威に対し、「合意された枠組み」やKEDOが不十分ではないかとの問題意識が米政府内で高まった。

 このような状況を受け、クリントン大統領は98年11月、ウィリアム・ペリー前国防長官に対北朝鮮政策の広範な見直しを行うよう命じた。いわゆる「ペリー・プロセス」である。ペリーのチームは日韓政府とも緊密に協議しながら、北朝鮮とも直接対話し、翌99年10月に報告書を提出した。

 報告書ではまず重要な点として、政策提言の前提となる情勢認識においてありのままの北朝鮮政府と対応すべきであるとしている。つまり、北朝鮮の体制変化は当面ないという判断で、北朝鮮の体制基盤を弱化させたり、改革を促したりすることは不適当であると断じている。このあたりの情勢認識と判断は、金大中政権の「太陽政策」の影響を受けていると見られる。

 また万が一戦争が起こった場合、米国と同盟国に与える被害が大きいことを指摘し、米国は慎重かつ忍耐をもって目的を追求すべきとしている。ここはいささか北朝鮮に足元を見られるところであろう。そして「合意された枠組み」は補強されるべきであり、これを弱めたりこれを代替したりすることはすべきでないとしている。

 そのうえで、包括的かつ統合されたアプローチを取ることを勧めている。つまり、北朝鮮が核兵器開発プログラムを持たないという完全かつ検証可能な保証を追求する。完全かつ検証可能な形で、ミサイルの実験・生産・配置および輸出の停止を追求する。その際、米国と同盟国は一歩一歩、相互主義的に北朝鮮への圧力を減らしていく。もし北朝鮮が核と長距離ミサイルの脅威を取り除くのであれば、米国は北朝鮮と関係を正常化し、制裁を緩和するといったアプローチである。