2022年は、歴史的な「小泉訪朝」から20年の節目となる。それまで拉致被害者の存在を頑なに否定していた北朝鮮当局と金正日がこれを認めて謝罪し、一部被害者の方の帰国が実現したことは、多くの人々の記憶に焼き付いていることだろう。

 ここでは、1990年の金丸訪朝から2002年、04年の2度の小泉訪朝までの北朝鮮外交に従事した外交官・山本栄二氏の著書『北朝鮮外交回顧録』(筑摩書房)から一部を抜粋。金正日が拉致を認める第1次小泉訪朝の知られざる裏側を紹介する。(全2回の2回目/1回目から続く

小泉純一郎元総理 ©文藝春秋

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第1次小泉訪朝――先遣隊として平壌に入る

 夏が終わろうとする季節のある朝、ニューヨーク郊外の自宅から車を運転し、マンハッタンにある国連本部の駐車場に入ろうとしていたときである。東京の平松賢司北東アジア課長から携帯に電話があった。

「ニュース見た?」「いいえ。どうしたんですか? 突然」「総理が平壌を訪問することになったんだよ」。彼はそう言って、小泉総理の北朝鮮訪問を準備するため、先遣隊として至急平壌に飛んでほしいと依頼してきた。

 寝耳に水であった。当時、国連代表部に勤務していた自分としては、近く国連総会が始まるし、総理来訪を準備する必要もあったため即答はできない。しかし上司の了解もあっさり得られて、数日後にはアンカレッジ経由の大韓航空機に乗り、ソウルを経て北京に向かっていた。

 2002年9月7日、午前11時30分発の高麗航空便は1時間遅れて北京空港を離陸し、12時半頃に国境の鴨緑江を越え、平壌時間の午後2時前に順安空港に到着した。ほぼ4年ぶりの北朝鮮である。滑走路の周辺は緑の強い夏草が眩いばかりである。

 空港の控室に入ると、北朝鮮側からは馬哲洙(マチョルス)・外務省一四局長他何人か顔見知りの職員が出迎えに来てくれていた。すでに先遣隊として北朝鮮に入っている山野内勘二・在韓国大使館参事官他、同僚もいる。わが方は韓国の公館や東京から外務省、関係省庁の職員が合流してかなりの人数になっている。準備を本格化させるということである。

 馬局長と挨拶をかわし、総理訪朝を成功させるため、お互い協力しようと述べあう。北朝鮮側の強い意気込みを感じる。

 わが先遣隊の準備室は、市内の高麗ホテルの一室にすでにセットアップされていた。山野内参事官以下、第一陣の面々の努力の賜物である。小泉総理一行を平壌に迎えるまであと10日、さっそく先方より、総理の宿舎としてぜひ「百花園」を使って頂きたいとの申し入れがあり、当方より本国に伝えると答える。「百花園」は1990年、金丸信元副総理一行が泊まった宿舎であり、北朝鮮においては元首級の来賓を迎える最高級の迎賓館である。

 私たちの相手は外務省一四局(日本担当)および儀典局であり、さっそく総理訪問準備のための具体的な打ち合わせが始まった。