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 9月10日には先遣隊の本部長として在英国大使館の梅本和義公使(元北東アジア課長)を迎え、さらなる増員を加えて先遣隊のメンバーは60名近くとなる。

 国交がなく、信頼関係がない国にいきなり総理を迎えるということは尋常ではない。北朝鮮にはこれまで日本から政党の幹部や国会議員が訪問したことは何度かあったが、外務大臣の訪問すらなかったところに突然総理である。儀礼の確認を含め、その準備は容易ではない。外務本省は韓国をはじめとする友好国から、大統領や政府高官の訪朝の経験を下調べし、参考としたようであった。

 私は拉致問題も含め、今回の総理訪問の背景についてほとんど知らされていない。単に日程、宿舎、通信体制、儀礼といったいわゆるロジスティック面についてのみ、準備に専念するよう指示されていた。そして実際、訪朝の実体面の準備については何も承知していなかった。

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 そういう状況で当時、平壌にいて特異に思ったのは本省から来る準備にあたっての基本的な指示である。とにかく実務的な訪問とし、華美にならないよう注意せよということである。そもそもが1泊せず日帰りであるうえに金正日とは食事をせず、飲食の提供を受けない。おにぎりや飲料など、すべて東京から持ち込むというのである。

 金正日は演出が得意と言うので、本人が空港に出迎えたり歓迎食事会を受けたりすると、北朝鮮側のペースに巻き込まれるかもしれないという危惧があったのかもしれない。また拉致被害者について、事前に少なくとも一部の安否は明らかにされるという観測があったが、ひょっとしていいニュースだけではないかもしれないと東京は心配していたのかもしれない。とにかく当時、総理訪朝を控えて東京には大変な緊張感があった。

 私たちが最も意を用いたのは通信体制の確保である。まずは本省との間で、秘匿のかかった電話・通信体制を確保する。大使館がないので当然のことである。そして当日、ホテル、宿舎、空港、車内、政府専用機といくつかの拠点に分かれて行動する私たち同士の通信・連絡体制を確保することである。北朝鮮では携帯電話の使用は許されていないが、固定電話だけでは不十分である。そのため私たちはインマルサット、イリジウム電話、携帯無線を持ち込み、事前に十分試験をして円滑な連絡体制の確保に努めたのである。

 総理一行の来訪まで10日と結構な準備期間があったため、その間、平壌市内や郊外を散策し、視察する機会があった。これまで4回の自身の訪朝では見られなかった光景としては、市内の大通りに面した歩道で屋台のような簡易な出店があり、アイスクリーム、ソーダ、パンなどを堂々と売っている。外貨ショップでは韓国顔負けの激しい販売勧誘に直面し、閉口したりした。

 また、市内の住民対象のいろいろな店にも顔を出す。品数は少ないが値段が表示してあり、中にはドル表示のものもある。ネギ1束10ウォン、アイスクリーム10ウォン、梨20~30ウォン、ドーナツ15個1ドル、パン類15~25ウォン、ポロシャツ500ウォンといった具合である。月給がだいたい4000ウォン、公式なレートが1ドル=150ウォンということであった。別途配給はあるのであろうが、決して安くはない。

 私たちの散策は自由であったが、店に顔を出すとときどき奇異な目で見られる。当局に通報が行くのか、何度か「頼むからあまりうろうろしないでください」と担当者から苦情を言われたこともあった。

©iStock.com

9月17日日朝首脳会談、当日の朝

 9月17日、当日の朝を迎えた。北朝鮮でも、数日前に金正日総書記に対する共同通信社長の書面インタビューが『労働新聞』の1面に掲載され、小泉総理を迎える雰囲気が盛り上がりつつある。7時過ぎに先遣隊としての最後の全体会議を行い、空港に向かう。

 薄もやが徐々に晴れていく中、車窓から外を眺めると路傍にコスモスが咲いている。ときどき道路を掃除する人や警官の姿が見える。空港に着くとやや涼しく、天気晴朗、無風である。厳重な警備で、暫し付属の建物に閉じ込められて滑走路に出られない。ひょっとして金正日が現れるのではないかと気が気でない。