一方で同年12月には、日朝関係改善に熱心な野中広務衆議院議員がお膳立てし、村山富市元総理を団長とする超党派国会議員団が訪朝する。同訪朝団は朝鮮労働党との間で「共同発表」に署名し、国交正常化のための日朝政府間会議再開の重要性について合意する。また、日朝両国が関心を持っている人道問題解決の重要性について合意し、それぞれの政府の協力の下で赤十字に対して、このためにお互い協力していくよう勧告することとした。
日本側にとっての「拉致問題」は、北朝鮮側にとっての「食糧支援」
「人道問題」とは日本側にとっては「拉致問題」であり、北朝鮮側にとっては「食糧支援」である。このとき、北朝鮮側を代表した金容淳書記は関係改善に熱心であった。拉致問題についても日本側の調査要請に対し、大方の予想に反してあっさり「調査します」と答えている。
村山訪朝団の後、間髪をいれず日朝赤十字協議と日朝国交正常化のための政府間予備会談が相次いで開催された。この2つのルートを緊密に連携させながら、人道問題と正常化交渉を進めていく方式が取られたのである。
赤十字会談では拉致問題に関し、日本人「行方不明者」について北朝鮮側がしっかりとした調査を行うために当該機関に依頼することが「共同発表」で確認される。これは大きな進展であった。局長級の予備会談では、国交正常化交渉の早期再開に向けて実務問題について意見交換を行う。日本側から、拉致問題は避けて通ることはできないと指摘し、誠意ある対応を取るよう強く求めた。これに対し北朝鮮側は「行方不明者」問題として捉えるべきであると述べたものの、過剰反応は見せず、関係改善への強い意欲が感じられた。
2000年3月、日本政府はコメ10万トンを、国際機関を通じて供与することを発表する。4月には約7年半ぶりに日朝国交正常化交渉が再開され、それ以来計3回(4月、8月、10月)にわたって本会談が開催される。また7月、ASEAN地域フォーラム会合に際し、史上初の日朝外相会談が開催される。この間、北朝鮮側において「行方不明者」のしっかりとした調査が開始され、同年9月には98年1月以来、第3回目となる日本人配偶者の故郷訪問が実施された。さらに10月になると、日本政府は50万トンの食糧援助を、世界食糧計画(WFP)を通じて行うことを発表した。
このように日朝関係改善に向け、日朝双方で積極的な措置が取られ、前向きな歯車が回転し始めた。しかし日本側の一連の措置は、決して容易に取られたものではない。国内世論や党から厳しい意見も出され、調整と根回しは難航を極めた。何しろ「拉致問題」に解答は出ていなかったのであるから。その際、朝鮮半島をめぐる国際情勢の好転に政府は助けられた。特に2000年6月、歴史的な南北首脳会談が金大中大統領と金正日国防委員長との間で行われた意味は大きかったと思われる。
この時期、北朝鮮が日朝関係改善に熱心になったのは明らかである。日本に対してだけでなく、金正日の指導の下、対外関係全般が活発化し始めたのがこの時期である。2000年に入ると金正日は中国、2001年にはロシアを相次いで訪問し、首脳外交を展開する。イタリア、豪州、英国などとの国交が樹立される。金正日体制が盤石となり、食糧難も峠を越えたからであろう。
日本との関係強化に乗り出した背景には、米国との関係改善に先立ち、米国と同盟関係にある日本との関係改善をまず目指したのではないかという指摘がある。また北朝鮮経済を再建し、当時北朝鮮でしきりに強調され始めた「強盛大国」を実現するには、国交正常化を通じた日本からの莫大な資金(補償)の導入が不可欠と考えたのかもしれない。
しかし2000年10月に行われた再開3回目の第11回正常化交渉で、北朝鮮側の対応は硬化する。同じ時期、趙明禄国防委員会第一副委員長の訪米やオルブライト国務長官の訪朝により、米朝関係が急速に接近したことと関係があるのかもしれない。一方で、この頃北朝鮮側から「もっとレベルを上げませんか。平壌に来ませんか」という内々の打診がなされている。森総理が日朝首脳会談を視野に、韓国系ジャーナリストを通じて金正日総書記に親書を送っていたことが判明し、中川秀直衆議院議員がシンガポールで姜錫柱第一外務次官と秘密会談を行ったという噂も流れた(この秘密会談は、後に関係者の証言で確認される)。
金大中大統領が南北首脳会談の経験を踏まえ、金正日と直接談判するのが最も効果的であると日本側に助言していた。日朝首脳会談の実現は時間の問題であったのかもしれない。しかし森内閣の下では総理訪朝は実現せず、2001年4月に発足する小泉純一郎総理の手に委ねられることとなる。それでも総理訪朝の萌芽はすでに2000年の段階であり、当時の関係改善に向けた努力が2002年9月の小泉訪朝につながっていったのであろう。
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