初デートは「大失敗」だったアントニオ猪木
美津子の姉はこれまた大物女優の倍賞千恵子だ。美津子は5歳上の彼女を追い、15歳で松竹音楽舞踊学校に入り、18歳でSKDに入団したといういきさつがあった。後年、猪木は明治大学の文化祭でおこなった講演会で、前出の倍賞との出会いの顛末含めこう振り返っている。
「そういう感じで、彼女に取り入ったわけです(笑)。『友達が、あなたの姉のサインを欲しがっている。ですので、お会い出来ませんか?』とね」
実際、前述の会食には、小野みゆきや他の美人SKD生も同席していただけに、特に倍賞が、猪木に見初められたということになる。
しかし猪木は、倍賞には決まりの悪い顔を見せることもしばしばだった。初デートのドライブで、何か焦げ臭いなと思ったら、猪木がサイドブレーキをかけたまま運転していた、なんていうのは序の口。倍賞の実家に挨拶に行ったところ、気が付いたら酒豪の父親に潰され、意識を失っていた(猪木も酒は、極めて強い方なのだが)。
バタバタは、リングでの魅力で取り返すしかない。
1970年8月には、時のNWA世界ヘビー級王者、ドリー・ファンク・ジュニアとの一戦に倍賞を招待(2日・福岡スポーツセンター)。引き分けでタイトル奪取はならなかったが、見る者の胸を打つ名勝負を見せた。翌年3月には倍賞と米ロサンゼルスで合流。
26日、同地でジョン・トロスを破り、UNヘビー級王座のベルトを奪取。現在も全日本プロレスの三冠統一ヘビー級王座の1つとして名を刻むビッグタイトルの獲得は、猪木にもう1つの花を抱かせるには充分だった。
「倍賞美津子、猪木、結婚」の見出しに落胆
帰国した3月29日、羽田空港の特別室で、2人そろって婚約を発表した。大物同士の慶事にふさわしく、150人以上の報道陣が集まった。
この直前、倍賞は1人で松竹の本社を訪れた。
「結婚したいんですけど」
“好きな人と一緒になるのは当たり前”と考えていた倍賞に、城戸四郎・松竹社長(当時)は言った。
「うん、そういう幸せもあるね」
ところが、他の幹部が言った。
「結婚して子どもを産んだら、今と同じような役は来ないよ」
「あら、じゃあ、辞めますわ」
迷わず退社し、フリーに。つまりは、松竹の看板が外れての婚約発表だった。しかし、翌日の新聞は、猪木を若干落胆させたようだ。
「倍賞美津子、猪木、結婚」
全ての紙誌の見出しで、猪木の名が、倍賞の後に記されていたのだ。そしてそれは、7ヵ月後の2人の結婚が次のようなものになることと、無縁ではなかった。