「国会に卍固め!」「消費税に延髄斬り」――アントニオ猪木は、日本で最初に政界進出に成功したプロレスラーである。高い知名度、スター性から当選確実と思いきや、その道は苦杯の連続だった。
いったい何が“燃える闘魂”の政界進出を阻んだのか? プロレス&格闘技ライター瑞佐富郎氏の新書『アントニオ猪木』より一部を抜粋。(全2回の1回目/後編を読む)
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「世の中が乱れた時こそ、俺の出番」
「国会に卍固め!」
猪木が1989年夏、初めて国政にチャレンジした時のキャッチフレーズである。ところでこの謳い文句、実は、以下のような続きがある。
「消費税に延髄斬り」「北方領土問題には腕ひしぎ逆十字」
前年にはリクルート事件があり、「政治とカネ」への関心も高まった、いわば、政治の課題や問題が多い中での転身だったのだ。
猪木は出馬会見で、こう語っている。
「世の中が乱れた時こそ、俺の出番」
こちらは幼少期より、親族から教え込まれた言葉だとのこと(正確には、「お前の出番」だと言い含められていた)。実際、猪木の父・佐次郎は、当時の自由党から横浜の市会議員に立候補している。また、師匠の力道山も政治家転身に色気を見せていて、現に、後の総理大臣である中曽根康弘をその若手議員時代に可愛がり、自身の経営する『リキ・パート』に住まわせていたほどである。なお、両者の共鳴点は「首相公選制」。首相を国民投票で選ぶという制度だが、中曽根が標榜していたこのシステムに、当代一の人気者だった力道山が呼応したのはうなずけよう。
とは言えである。力道山は刺傷により、享年38で急逝。佐次郎は、まさに初出馬の遊説中に心筋梗塞で急死。猪木は当時5歳で、この佐次郎の記憶は、ほとんどないという。
要は、生みの親、そして、プロレスラーとしての育ての親の両方が政界入りを夢見ながら、猪木はその薫陶は受けられなかったのである。
にもかかわらず、自身は初出馬で初当選。それは日本における初のプロレスラー議員の誕生であり、今までの既成概念にとらわれない、新たな議員像の出現でもあった。当選直後、猪木は、求める政治家としてのビジョンについてこう語っている。