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何もない猪木が選んだ「100万人と握手作戦」

 確かにそうだった。選挙は初めてで、地盤はない。選挙費用もない。通常なら平均で5億円ほどかかるところが、「1億6000万くらい」(関係者談)しかかからなかったというが、安上がりと言えば聞こえは良いものの、要するに金もなかったのだ。

 よって猪木が採ったプランは、地道な対面戦術。その名も「100万人と握手作戦」。字面そのまま、100万人の有権者との握手を目指した。ところが、公示からまだ4日しか経っていない7月9日の沖縄遊説中、あの猪木から意外な言葉が出た。

「痛っ!」

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 右手が腫れ上がっていた。握手のし過ぎで、リングでは痛めたことのない利き手を痛めたのだ。以降、一時的に左手で握手せざるをえなくなる猪木。歩行での移動が大前提になるため、意外にも体重が邪魔をし、足腰が悲鳴を上げる。猛暑もあり、疲労も避けられない。握手は結局、90万人を少し超えるにとどまった。

 先に触れたが、父の佐次郎は選挙の遊説中に、心筋梗塞で急死していた。猪木自身は苦闘しつつ、投票前日の7月22日、東京駅での最後の街頭演説で、涙を見せた。

「90万人の人と握手をしました。そしてその痛みを、自分の肌で感じて参りました。痛みを知らない政治家が、どうして市民の声を聞くことが出来ますか?(涙を見せ、震え る声で)頑張って参ります。心の底から、日本を思っております!」

 猪木ファンには有名なシーンである。また、この選挙活動を振り返るテレビ映像では、ほぼ必ず流される1コマでもある。だがしかし、猪木が遊説中、涙を見せたのは、実はこれが2回目だった。

 7月19日。猪木は大阪で、この選挙戦、唯一のパフォーマンスをした。

 大阪の事務所の前でリングを組み、先ずは馳浩扮するマスクマン「リクルート・カモメ」と対決(注・カモメは当時のリクルートの社章に用いられていた)。

現石川県知事・馳浩はかつてマスクマンとしても活躍していた ©文藝春秋

 これを卍固めで一蹴すると、続いて登場の人形「ワル・ザ・消費税」には延髄斬り。人形の首は、ポーンと空中に舞い上がり、聴衆がそれをキャッチ。大盛り上がりとなった。

 この日は、猪木が涙を見せた最後の街頭演説の3日前。地味な握手活動の傍ら、大きくアピールする場が必要と考えた事務所考案の緊急措置だった。幸い、テレビ局なども取材に訪れ、まさに今回の選挙の2大争点を相手にした猪木の姿を収録。最後はリング上で、その意気込みを問うインタビューとなった。

 しかし、猪木の口から出たのは、意外な言葉だった。

「消費税やリクルート。日本の全部が、そこに視線を取られていてはダメだと思うんです。もっと大きな視野で、世界と日本を見なければ……」

 瞬間、猪木の目から一筋の涙が流れたのを、隣にいたリングアナの田中秀和は見逃さなかったという。実際、猪木は一瞬、声を詰まらせた後、言った。

「本日はありがとうございました……!」