2017年2月、北朝鮮の最高指導者・金正恩の異母兄である金正男が暗殺され、世界中に衝撃が走った。犯行が行われたのは旅行客で賑わうマレーシアのクアラルンプール国際空港で、金正男は二人の女に毒物を顔に塗りつけられて死亡した。
彼はなぜ殺されたのか、なぜマレーシアだったのか、実行犯の女性たちは何者なのか――。ここでは、乗京真知さんと朝日新聞取材班が、謎の多い金正男暗殺事件を取材してまとめた『追跡 金正男暗殺』(岩波書店)から一部を抜粋。
二人の実行犯の証言から浮かび上がった「教育役」の北朝鮮工作員たち。金正男の顔に毒性の強い神経剤VXが塗りつけられたのを確認した後、4人の工作員たちがそれぞれ周到な手口でマレーシアから脱出するまでの一部始終を紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)
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金正男がクアラルンプール国際空港第2ターミナルの出発ホールで襲われた後、捜査に乗り出したマレーシア警察が、犯人特定の手がかりとして重視したのは、空港の監視カメラの映像だった。警察は複数の映像をつなぎ合わせることで、実行犯の行動だけでなく、実行犯の背後に見え隠れする、不審な男たちの影も追った。
暗殺の「教育役」の影
空港の監視カメラの映像からは、正男の行動を先読みし、空港で待ち伏せする実行犯2人の様子が確認できた。正男が、いつ現れ、どこを通って、どの自動チェックイン機の前で立ち止まるか。実行犯はターゲットの癖まで見抜いているようだった。
また、実行犯二人の動作は、驚くほど似たものだった。二人は正男に続けざまに飛びつき、毒の浸透が早い目を触った後、トイレに駆け込んで手を洗い、タクシー乗り場で車を拾った。まるで二人の女優が、同じ台本をもとに演技を競っているようだった。だとすれば背後に、台本を渡した黒幕がいたとしても不思議ではなかった。警察は暗殺のプロが介在した組織的な犯行とみて、監視カメラ映像の解析にあたった。
警察の見立て通り、映像には不審な動きを見せる工作員らしき男たちの影が映り込んでいた。中でも目立っていたのは、インドネシア人の実行犯シティのすぐそばに立つ、痩せ形の男だった。
シティの供述によると、この男は「チャン」と名乗る自称中国人だった。口の周りとあご先にヒゲを生やしていた。黒縁の眼鏡をかけ、黒地のキャップを目深にかぶっていた。キャップの前面には、白いアディダスのロゴ。フード付きの灰色のパーカーを羽織り、ジーパンのような素材の長ズボンを履いていた。右手の人さし指には、絆創膏のようなものを巻いていた。靴は黒っぽい色のスニーカーで、ラバーソールだけが白く浮き立っていた。
犯行の直前、チャンはシティとともに、柱の陰で正男を待ち伏せしていた。正男が出発ホールに現れると、チャンはシティの手のひらにオイル状の液体を垂らした。
何も知らない正男は、チャンやシティに気づかぬまま、柱の前を通り過ぎた。チャンは柱の陰から姿を現し、正男の背中を横目で追いながら、現場からゆっくりと離れていった。右手はパーカーのポケットに突っ込み、左手には白い手提げ袋を持っていた。
チャンは20メートルほど離れたところで、一瞬だけシティの方を振り返り、正男に飛びかかる様子を確認した。襲撃が成功したことを見届け、立ち去った。