2017年2月、北朝鮮の最高指導者・金正恩の異母兄である金正男が暗殺され、世界中に衝撃が走った。犯行が行われたのは旅行客で賑わうマレーシアのクアラルンプール国際空港で、金正男は二人の女に毒物を顔に塗りつけられて死亡した。

 彼はなぜ殺されたのか、なぜマレーシアだったのか、実行犯の女性たちは何者なのか――。ここでは、乗京真知さんと朝日新聞取材班が、謎の多い金正男暗殺事件を取材してまとめた『追跡 金正男暗殺』(岩波書店)から一部を抜粋。

 実行犯の一人であるインドネシア人女性、シティ・アイシャ(25歳)が「日本で放送される『いたずら番組』に出ないか」という誘いに乗り、「中国人のチャン」に指示されるまま金正男の暗殺を実行した当日の行動を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む

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金正男暗殺の実行犯として逮捕された二人の女性。右側がインドネシア人のシティ・アイシャ。 ©AFPPHOTO/RoyalMalaysianPolice

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空港で「いたずら」の打ち合わせ

 事件当日の2017年2月13日。シティは朝8時からクアラルンプール国際空港第2ターミナルで、いたずら番組の撮影に参加することになっていた。空港までは彼氏の車で行く約束だった。

 午前6時前、身支度を整えたシティは彼氏に通話アプリでメッセージを送った。「準備できたよ」。彼氏から、すぐに返事が来た。「下りてきな。もう下に着いてるから」。ランドローバー社の茶色い四駆で迎えに来てくれていた。

 捜査資料によると、彼氏はマレーシア籍の26歳。シティのマッサージ店などに料理を届ける仕出屋で、シティとは2016年6月ごろに知り合った。

 空港までは2時間近くかかった。シティが住み込みで働くクアラルンプール東郊のマッサージ店から、南郊の国際空港までは約60キロ。有料道路を使っても、渋滞に巻き込まれることが多い区間だ。

 午前7時40分ごろ、第2ターミナルに着いたシティは、スマートフォンのショートメッセージで、チャンに「着きました。今どこですか?」と連絡した。チャンは待ち合わせ場所として、ターミナル3階の出発ホールにあるカフェ「ビビク・ヘリテージ」を指定した。

 ビビク・ヘリテージは、マレーシア風の軽食や飲み物が楽しめる店で、同じく出発ホールにあるスターバックスと並ぶ人気がある。白黒のタイルを交互に敷き詰めた床が特徴的で、その上に白い大理石の丸テーブルと木製のいすが並んでいる。丸テーブルには一卓ずつ番号が振ってあるが、店員が注文を聞きに来るわけではない。注文も支払いも、客がバーカウンターで済ませる形式だ。

 店の目の前には自動チェックイン機が並んでいて、出国ゲートまでは60メートルほど。出発ホールをよく見渡せる位置にあり、時間をつぶすには打ってつけの場所だ。

 シティとチャンが落ち合ったのは、ビビク・ヘリテージの15番テーブル。先にテーブルについたのは、チャンだった。店内の防犯カメラが、その様子を捉えていた。チャンが席についた8時10分から、二人が席を立つ8時35分まで、25分間。防犯カメラの映像からは、シティとチャンが入念な打ち合わせをしていたことが浮かび上がった。

犯行前の打ち合わせで,ハイタッチするシティ(右)とチャン(2017 年2 月13 日,関係者提供)

 気になるのは、この打ち合わせで、シティとチャンが具体的にどんな言葉を交わしていたかだ。防犯カメラが記録しているのは映像だけで、音声は残っていないのだが、シティが逮捕後に弁護士に打ち明けたところによると、チャンは「これが最後の撮影になるかもしれない」と語りつつ、「いい演技を見せてほしい」「演技がうまければ、次に仕事があったときに声をかける」と告げたという。

 さらにチャンは、いたずらの相手の特徴についても説明した。いたずらの相手は「我々の撮影会社のナンバー2」で、風貌は「金持ち風」の「大柄な男性」。ただ「怒りっぽい」ところがあるので「いたずらが終わったら、すぐに空港を離れろ」と忠告したという。

 つまりチャンは、いたずらの相手は撮影会社の「身内」なのだから思い切って演技できるはずだと発破をかけて犯行の完遂を促しつつ、現場で取り押さえられることがないように逃走の手はずも整えていたということだ。