「オイル」が放つ臭い
シティは出発ホールから出て、手を洗うために階下のトイレに向かった。同じ階のトイレに行かなかったのは、事前にチャンから「いたずら相手は怒りっぽい性格だ」「トイレではち合わせるとまずいので、下の階のトイレを使うように」と忠告されていたからだった。
監視カメラの映像によると、トイレに向かう間、シティは両手を体から離して服を汚さないようにしたり、エスカレーターの手すりを触らないようにしたりしていた。巡回中の警察官のすぐそばを、足早に駆け抜ける場面もあった。
トイレに入ったシティは、手に塗られたオイルの臭いに気づいた。車の修理工場に漂っている、エンジンオイルのような臭いがした。水で流してもぬめりが取れず、セッケンを使って約3分間洗った。痛みやかゆさは感じなかった。
トイレから出たシティは、ショルダーバッグの中からスカーフを取り出した。スカーフを肩にかけ、1階のタクシー乗り場に向かった。チャンが事前にくれた乗車券でタクシーを拾った。正男を襲ってからタクシーに乗るまで、シティは「10分ほどだった」と記憶しているが、実際には25分ほどたっていた。
空港からクアラルンプール市内に戻るタクシーの中で、シティは急なめまいや眠気に襲われた。有料道路を走っていたが、運転手に頼んで車を停めてもらった。路肩にうずくまり、胃酸混じりの唾液を吐き捨てた。胃から不快なガスもせり上がってきた。
シティは「胃潰瘍の症状と似ている」と感じた。もともとシティは胃が弱く、吐き気を覚えることは珍しくなかった。この日も朝、チャンとの打ち合わせでコーヒーを飲んだため、胃が刺激を受けたのだろうと理解した。
後に猛毒VXの鑑定にあたった化学者は、裁判で「ヒトの手の皮膚や脂肪は厚いため、15分以内に手を洗えば、中毒症状が出なかったとしても不思議ではない」との見解を示している。シティの急な体調変化がVXの影響だった疑いは残るものの、トイレで手を洗ったことで死の危険を回避した可能性が高い。解毒剤を渡されたこともなかったとシティは供述している。
その後、シティはクアラルンプール中心部でタクシーを降りた。ショッピングモールに寄り道し、リーバイスのデニムを1本買った。買い物袋を写真に収め、通話アプリ「ワッツアップ」で友達に送った。ひと仕事終えた自分へのご褒美だった。
夜になると、また体の具合が悪くなった。体調不良について、シティは知人らに状況を伝えていたらしい。スマートフォンには、額に冷却シートを貼って横になる様子(午後7時撮影)や、赤く充血した目を見開いた様子(午後11時撮影)などの自撮り画像が残っていた。毒を扱ったことによる影響か、体調不良がたまたま重なったのか、警察も解明できていない。
ただ、翌14日には体調を持ち直したようだ。いつもどおりマッサージ店の仕事に戻った。スマートフォンには、胸元が開いた赤いシャツを着て、ピンクの唇を半開きにした自撮り画像(午後10時撮影)を残していた。
また、この日は再びチャンから撮影の誘いがくる可能性があった。チャンは「(13日の)演技がうまければ、次に仕事があったときに声をかける」「13日から3日間ほど撮影が続く」と語っていた。
なにより13日の撮影の報酬が未払いだったので、どこかでチャンと落ち合う必要があった。それまでは撮影当日か、おそくとも翌日には報酬を受け取っていた。シティはチャンに電話したが、つながらなかった。通話中ではなく、電源が入っていなかった。チャンが既に海外に逃れていることなど、シティには知るよしもなかった。