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未解決事件を追う

「お前は誰だ!?」「あっ、ごめんなさい」“いたずら番組出演”だと言われ…25歳のインドネシア人女性が金正男を暗殺した日

「お前は誰だ!?」「あっ、ごめんなさい」“いたずら番組出演”だと言われ…25歳のインドネシア人女性が金正男を暗殺した日

『追跡 金正男暗殺』より #1

note

警察から逃げ隠れせず

 マレーシア警察は正男を襲った実行犯として、シティの行方を追った。警察が手がかりにしたのは、事件現場となった空港の監視カメラだった。

 監視カメラの映像を解析したところ、シティが事件前、ランドローバー社の茶色い四駆で空港に来ていたことが確認できた。四駆のナンバーは「B」から始まるローマ字3文字と、「3」から始まる4桁の数字からなっていた。車両情報を検索すると、シティの彼氏の名前が浮かんだ。警察は事件2日後の2月15日夜、彼氏を逮捕した。

 彼氏は警察の取り調べに、シティを空港まで送り届けたことを認めたが、事件のことは初耳で、何のことか分からないと供述した。シティに人を殺すような度胸はないことや、シティと結婚するつもりだったことも打ち明けた。犯歴がなく警察に協力的な彼氏を、警察は容疑者というよりも捜査の助けになる重要人物として勾留することにした。

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 警察が彼氏からシティのホテルを聞き出し、家宅捜索の準備に入ったのは、時刻が午前0時を回ってからだった。裁判で捜査員が証言したところによると、捜査班がホテルに着いたのは2月16日午前2時15分。エレベーターで3階まで上がり、シティが寝泊まりする356号室に踏み込んだ。ドアは開いていて、部屋は明るかった。シティはベッドの上にいたが、まだ寝ていなかった。何の容疑をかけられているのかと、驚いた様子で尋ねたという。逃げ出すようなそぶりは見せなかった。

 捜査班はシティに手錠をかけ、警察署に連れて行った。同時に、部屋にあるシティの所持品を押収した。具体的には、シティが犯行時に身につけていたとみられる灰色のノースリーブや、薄手のスカーフ、水色のデニムのほか、レイバンのサングラス、ルイ・ヴィトンのバッグ、スマートフォン2台、靴、パスポートなどだった。いずれも汚れが残っていて、洗い流した様子はなかった。これら押収物から毒物が検出されるようなことがあれば、それはシティが実行犯だったことを裏付ける重要な証拠になる。

手落ち捜査で猛毒の出処が不明に

 毒物鑑定を担当したのは、警察の依頼を受けたマレーシア化学局だった。化学局の資料によると、ノースリーブなどの押収品は2月21日(事件の8日後)、シティの爪の切れ端や爪の周りを拭いた綿棒は2月24日(事件の11日後)、シティの血液は3月6日(事件の21日後)に、それぞれ鑑定に回された。

 鑑定の結果、押収品の中で唯一、ノースリーブから猛毒の神経剤VXの関連物質が検出された。シティが正男に塗った液体にはVXが含まれていて、そのVXの飛沫がノースリーブに付着した可能性を示唆するものだった。殺意の有無は別として、シティの行為によって正男が死亡した疑いが一段と強まった。

毒物鑑定で,猛毒VX の関連物質が検出されたノースリーブの画像(関係者提供)

 ところが、警察は致命的な捜査ミスを犯していた。捜査班がシティの部屋を捜索した時、証拠集めを急ぐあまり、押収品の扱いがおろそかになっていた。本来であれば、押収したノースリーブは新しい袋などに入れて密封すべきところ、捜査班は部屋にあった袋に入れて持ち帰っていた。しかも、その袋は、シティが事件前に北朝鮮工作員の男チャンから渡された袋だったことが後の裁判で判明した。

 この結果、ノースリーブから検出されたVXの関連物質が、シティ由来のものなのか、袋由来のものなのかが、分からなくなってしまった。あらかじめ袋の中に、VXが付着していた可能性を排除できないからだ。

 立証の決め手になるはずだったノースリーブは、逆に証拠管理の甘さを物語る立証の壁となり、捜査全体の信用性に影を落とし続けることになる。

追跡 金正男暗殺

真知, 乗京 ,朝日新聞取材班

岩波書店

2020年1月30日 発売

「お前は誰だ!?」「あっ、ごめんなさい」“いたずら番組出演”だと言われ…25歳のインドネシア人女性が金正男を暗殺した日

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