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未解決事件を追う

「お前は誰だ!?」「あっ、ごめんなさい」“いたずら番組出演”だと言われ…25歳のインドネシア人女性が金正男を暗殺した日

「お前は誰だ!?」「あっ、ごめんなさい」“いたずら番組出演”だと言われ…25歳のインドネシア人女性が金正男を暗殺した日

『追跡 金正男暗殺』より #1

わずか一瞬の犯行

 打ち合わせの後、シティとチャンは自動チェックイン機の近くで待機した。ちょうど自動チェックイン機のそばには柱があったので、その柱の陰に隠れて、いたずらの相手が来るのを待ち伏せした。

 約20分後。誰かと電話するふりをして時間をつぶしていると、シティの耳元でチャンがささやいた。「あのグレーのジャケットを着た男だ」。チャンの目線の先に、ゆったりとした歩調で近づいてくる、恰幅のいい男性の姿が見えた。事前に聞いていたとおりの、髪の薄い、東洋風の男性。金正男だった。

 シティは、この時の心境について、拘置所で面談したインドネシア政府関係者らに次のように語っている。「相手は大柄だったので、殴られるのではないかと心配になったのです」「チャンから「相手は怒りっぽい性格だ」と聞いていたので心配だったのです」「警察を呼ばれるかもしれない、という恐れもありました」。ただシティには、ここで撮影を止めるだけの勇気はなかった。

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近づいてくる正男(右の丸)の姿を,柱の陰から確認していたシティ(左の丸)(2017 年2 月13 日,関係者提供)

 シティは柱の陰から、正男の動きを凝視した。あと数秒もすれば正男はシティの目の前を通り過ぎ、10メートル先の自動チェックイン機の前で立ち止まる。その時がいたずらのチャンスだった。チャンが、また耳元でささやいた。「手を出して」。シティは正男から目線を外さず、手だけをチャンに差し出した。オイル状の液体が手のひらに垂らされるのを感じた。どんな容器から液体が垂らされたかは見ていない。正男を観察するので精いっぱいだった。

 続けてチャンから「オイルがこぼれないように拳を握っておけ」と忠告された。言われた通り、拳を握りしめた。シティが正男を確認してから、オイルを手に塗るまで、10秒足らずで準備が整った。

 正男はシティやチャンの存在に気づかぬまま、柱の前を通り過ぎ、自動チェックイン機の前で立ち止まった。

正男(中央奥の人影)に歩み寄るシティ(左向きの人影)を捉えた監視カメラの画像(2017 年2 月13 日,関係者提供)

 すかさずシティは、正男に忍び寄った。握っていた拳を開き、オイルを両手になじませた。正男の背後から左前方に回り込んで、残り1メートルの距離まで接近した。ひと呼吸置き、間合いを計って、左足を大きく前に踏み出した。両手を伸ばし、正男の顔に触った。「目からあごにかけて液体を塗りつけました」。シティは後の取り調べの中で、顔に触れたことを認めている。

 不意を突かれた正男は、とっさに左腕を持ち上げるようにして、シティを振り払った。正男は、両手がふさがった状態だった。左手に航空チケットのような紙を握り、右手で旅行バッグを抱えていた。

 「お前は誰だ⁉」

 正男が声を上げた。

 「あっ、ごめんなさい」

 シティは頭を下げ、胸の前で手を合わせた。と同時に、異様な光景が目に飛び込んできた。こちらを見つめる正男の顔に、後方から誰かの腕が伸びてきたのだ。

 一瞬の出来事だったが、シティはその時の記憶を、後に弁護士などとの面談で明かしている。「いたずら相手(正男)の顔を見たとき、誰か他の人の手が伸びてくるのを見ました。それを見た私は、すぐに立ち去りました」。シティは、それが誰の手なのか、おおよそ見当がついていた。実は、事前にチャンから「もう一人、別の女優もいたずらに参加する予定だ。同じような演技をする」「もう一人の女優のことは気にしないでいい」「即座に逃げるように」と言われていた。チャンが言っていたのは、シティと同じように北朝鮮の工作員に雇われていた、ベトナム人女性のドアン・ティ・フォンのことだった。

 シティは周囲の旅行客の間を縫うように、走って逃げた。正男は事情をのみ込めぬ様子で、遠ざかるシティの背中を見つめたまま、立ち尽くしていた。チャンはいつの間にか、姿を消していた。