犯行を見届けた後は、携帯電話を左耳にあて、話し始めた。襲撃が成功したことを誰かに報告していたのか。電話が終わると、携帯電話を左ポケットにしまった。出発ホールを見渡し、ひと呼吸ついた後、そばにいた旅行客と言葉を交わす余裕を見せた。その足で出発ホールの外の喫煙所に行き、指に挟んだタバコを口にあてがった。
煙を吐きながら右手の時計をのぞき込み、タバコを灰皿に押しつけて火を消した。左ポケットにしまっていた携帯電話を取り出し、また話し始めた。誰かから電話がかかってきたようだった。
ハナモリは階下の駐車場に向かい、迎えのワゴン車に乗り込んだ。ワゴン車は黒っぽい中古車で、北朝鮮大使館に出入りする男が用意したものだった。その男の運転で東に2キロほど走り、国際線が離発着する第一ターミナルに移動した。
ハナモリはワゴン車の中で、サラリーマン風の服に着替えた。上半身は紫色のポロシャツから白いワイシャツに変えた。黒いスラックスにベルトを締め、革靴を履いた。ワイシャツの袖は余った分を折り曲げ、ひじまでたくし上げた。
第1ターミナルに到着し、ワゴン車を車寄せに付けた。ちょうどそこにチャンとミスターYもタクシーでやってきた。合流した3人はワゴン車からスーツケースを一つずつ取り出した。スーツケースの色は、いずれもシルバーで、機内への持ち込みができるサイズだった。事前に荷造りし、ワゴン車に積み込んでいたようだ。年長のハナモリは、自分のスーツケースをミスターYに運ばせた。
3人はそろって航空会社のチェックインカウンターに向かった。カウンターにパスポートを提出し、搭乗券を受け取るまでの間、3人はカウンター前で話し込んでいた。ハナモリは手のひらで目をこするようなしぐさや、両手で何かをつかむような動作を見せた。実行犯が正男を襲った場面を振り返り、その成果をかみ締めているようだった。
三人は出国審査場に並んだ。犯行時刻から1時間52分が経っており、捜査が早ければ出国を止められる可能性があった。言動を怪しまれないように、自然に振る舞う必要があった。
最初にカウンターに歩み寄ったのは、インドネシア語ができるチャンだった。インドネシア語はマレーシアのマレー語に似ているため、審査官と会話ができた。チャンは審査官ににこやかに声をかけ、静かにパスポートを差し出した。審査を受ける間も、言葉を交わし続けた。
スタンプを押してもらった後も話を止めず、急ぐそぶりを見せなかった。その間、約2分。左手でパスポートを受け取り、右手を振ってカウンターを離れるころには、審査官が親指を立てて送り出すほどに打ち解けていた。
チャンは審査場を抜けたところで、薄笑いを浮かべた。両眉をピクッと持ち上げ、舌先で左ほほを膨らませた。してやったり。そう言わんばかりの表情だった。チャンの後に続いたハナモリとミスターYは、それぞれ40秒ほどで審査を抜けた。そのまま3人は飛行機に乗り、ジャカルタやドバイなどを経由して平壌に戻った。