2メートル6センチの新助っ人がマリーンズの新しい勝利の方程式に組み込まれている。タイロン・ゲレーロ投手。あだ名は「ヒガンテ」。スペイン語で巨人の意味だ。メジャー通算3年で113試合に登板し2勝5敗。17年にはWBCコロンビア代表入りするなど活躍をしているが、日本ではまだまだ知られていない選手だ。今回はそんな彼のここまでの野球人生をクローズアップする。

タイロン・ゲレーロ投手 ©千葉ロッテマリーンズ

メジャーのアカデミーを転々としながらプレー

「野球は12歳ぐらいから始めたかな。元々は友達がやっていて、一緒に遊んだ。最初は一塁手や外野が中心。背が高かったからね」とゲレーロは振り返る。

 コロンビアはどちらかというと野球よりはサッカーが盛んな国。ゲレーロもサッカーも楽しんだ。背が高いということもありゴールキーパーをすることが多かった。ただ、気が付けばいつも家の近くの空き地で野球をすることに夢中になっていた。

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 出身はコロンビアのティエラ・ボンバ島のボカチカという街。家の目の前にビーチが広がる観光地で暇なときはいつも泳いでいた。父はツアーコンダクターをしていた。

 16歳の時に野球の地域代表に選ばれ、島から船で20分のところにあるカルタヘナという都市で試合を行った。カルタヘナはカリブ海沿岸の湾岸都市で石畳の通りやスペイン植民地時代の建物が多数、残る都市だ。この試合でヒューストン・アストロズのアカデミーコーチの目に留まり、投手として野球を本格的にスタートすることになる。

「練習のため、毎日、島から通ったんだ。船で20分。そこからまたグラウンドまでは1時間以上。帰りの最終便は20時だったから、練習が遅くまであった時は大変だったなあ。島の別の街への船は22時まで出ているから、乗り遅れたらそれに乗って、そこから歩いて1時間以上で家に着く。そんな日々だった」とゲレーロは振り返る。

 そんな努力の日々もなかなか報われることはなかった。ストレートのスピードは120キロ台。当時、すでに2メートル近い長身だったが、背丈を生かす投球をすることが出来なかった。アストロズアカデミーを事実上のクビのような形で退団し、デビルレイズのアカデミーへ。今度はそこも退団し、パドレスのアカデミーへとメジャーのアカデミーを転々としながらプレーをした。

「あの時の母の言葉がなければ、間違いなく野球はやっていない」

「メジャーのスカウトが見に来るトライアウトがあって、そこで合格するのが目的。でも、なかなか合格することは出来なかった」

 5回目のトライアウトで、どこからも声がかからなかった時点で野球を辞めようと思った。母にそのことを伝えると「まだ若いのだから自分の可能性を信じて頑張ってみなさい」と励まされた。母の後押しに支えられ、もう一度だけトライアウトを受けることを決意した。そして6回目の挑戦でパドレスの目に留まることになる。

「本当に母のおかげ。あの時の母の言葉がなければ、間違いなく野球はやっていない。そして今、ボクはここにいない。母はとても強い性格で父もなにも言えないぐらい」とゲレーロは感慨深げに振り返る。

 パドレスと契約をしたからと言ってすぐにアメリカに渡って野球をプレーしたわけではない。まず派遣されたのはドミニカ。そこでサマーリーグを戦った。今までとまったく違う環境だった。プロのコーチ陣の指導は目から鱗が落ちる感覚だった。フォームを一から教えてもらい、トレーニング方法も学んだ。栄養面のサポートも受け、プロテインを飲むようになった。細かった身体が見る見るうちに大きくなっていった。最初の頃は130キロを出すのが精一杯だったストレートも5ヶ月目には150キロを計測するようになっていた。

 満を持してアメリカに向かった。アメリカでは同じコロンビア出身のフリオ・テヘラン投手、エルネスト・フリエリ投手のバックアップとアドバイスもあり、どんどん成長をしていく。2016年についにメジャーデビュー。メジャー3年間でセットアッパーとして113試合に登板。防御率は5.77でなかなか華麗なる結果は出すことは出来なかったがストレートは最速167キロを計測するなど、その才能は誰もが知るところとなった。そんな中、徐々に日本に興味を持つようになる。