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「僕なんかいつも、すごく流されがちですよ」マキタスポーツが自伝的小説『雌伏三十年』で“ウジウジした主人公”を描いたワケ

マキタスポーツさんインタビュー

2022/05/10
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「僕なんかいつも、すごく流されがちですよ」

「そう、たとえば1990年代の圭次郎には、知り合いにオウム真理教の信者がいたというエピソードが出てきます。そこで期せずしてあの事件に巻き込まれていく、あっちの世界に足を踏み入れてしまうといった展開も考えられるけど、圭次郎は行かない。あれこれ心内が揺れるのに、結局は行動できないんですよね。

 圭次郎が、というか僕がそういうふうだったので、これはもうどうしようもない。だからこそ圭次郎は、信念を持って自分から動く人のことを、興味津々で観察しちゃうんです。『すごいなこの人たち、世間からどう見られようと満ち足りてるんだな』と」

 マキタスポーツさんご本人も「行動できない人」ということなのだろうか? これほど独自の道を歩んでいる存在だというのに。

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「僕なんかいつも、すごく流されがちですよ。仕事の領域が広いのも成り行きで、自分で切り拓いて勝ち取ったことはあまりない。役者の仕事でいえば、あるとき『おもしろい存在感があるので出てください』と声をかけられ、ノコノコ出ていったのが始まりでしたから。役者になりたてのころは自分でも収まりが悪くて困りました。

 最初オジサン役でちょっとブレークしたんですけど、僕のなかには超二枚目な自分も住んでいるから、そこを完全に押し殺して『ビジネスオジサン』に徹していた。自分としてはギャップがあったわけです。でもそのオジサン役が流通して定着すると、ニーズが生まれるし、こちらはそれに応えたいという気持ちも湧いてくる。それでせっせとオジサンを納品していたんですね。

 でも気づけばもう正真正銘のオジサンになっていて、いまは発注されたオジサンと現実の自分がかなり無理なくピタリと重なるようになった。まあ、やりやすくはなってきましたが」

 

日本現代風俗史も含んだ快作に

俺は退屈だった。

何か表現したい……。が、もう歌舞伎町で遊ぶだけでは満足出来ない。第一、文化の香りがしない。もっとオシャレで、スノッブなサブカルチャーを、この俺も表現出来ないものだろうか。

(『雌伏三十年』)

 ときに、これほどの「多才の人」が、今回は小説に気持ちを向けたのは、なぜだったのだろう?

「ものを書くという表現はずっとやってきたことだし、小説もいつか書きたいとは思っていました。そんなときにオファーをいただいたので、ここでもやはり流れに乗ったわけですね。小説は向いているんじゃないかという予感は最初からありましたけど。というのも、小説は基本ひとりで全部できるから。僕は芸人としてはピン芸人ですし、人に相談して民主的に物事を進めるのが得意じゃない。相談とかしてると、自分のつくりたいものが薄まってしまう気がするんですよ。

 小説はいちばん勝手にできる、すなわち自由度が高くて、ここでなら最も自分色の濃いものができるんじゃないかという期待がありました。実際にやってみると、当然ながら難しいところはたくさんあって、なかなか思い通りにいかないものでしたし、編集の方をはじめたくさんの人々に助けてもらいながらつくらせていただくことになるんですけどね」