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妻が繰り返した1つの行為とは…

 閉鎖病棟の入り口で腰をかがめる。強化ガラスに顔を近づけ、じっと外をのぞき込む。それから加害者の名前を口にして、叫ぶ。

「あそこにいる。逃げて」

 病室では、「(加害者が)隣の部屋にいます。追い出してください」と切願した。加害者の臭いが染みついた気がすると言って、汚れを落とすように自分の腕を強くこすった。過食嘔吐をできないため血色はよくなったが、しばらくすると「家に帰って食べ吐きしたい」と泣いて訴えた。

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 当時の私は連載記事を抱え、出張も多かった。入院先の病院と会社、取材先とを行ったり来たりしなければならないうえ、妻が「すぐに退院させて」と頻繁に電話してくる。取材を終えると、携帯電話に10件近い留守電が残されていることもあった。

 入院から10日後、本人の強硬な意思に加え、早期退院を促す病院側の事情もあって退院した。しかし、帰宅すると悲鳴を上げ続け、翌日、救急車を呼んで大阪府内にある別の精神科病院に入院した。以来10年余、この病院で入退院を繰り返すことになる。

この写真はイメージです ©iStock.com

 入院中の6月初旬、妻が別の世界に行ってしまったような衝撃を受けた。

 今回のセクハラが問題になり、加害者が職場を解雇された。そのことを私が伝えると、彼女は突然、面会室のテーブルの周りをぐるぐると走り始めた。「みんな逃げて」「もう家に帰る」とつぶやき、視線は宙をさまよっている。10分ほど回り続けただろうか。私がぼうぜんとしていると、異変に気づいた看護師が病室に連れて行った。

 それまでの彼女はどんなに変調をきたしても対話はできたし、どこかで私の気持ちを思いやっている感じがあった。ところが、このときは、このまま気持ちを通じ合えなくなるのではないかと不安がふくらんだ。

 被害を打ち明けたあの日から、妻が笑う顔を見ていない。喜怒哀楽が消えた。あるのは恐怖と不安だけだ。

 この世界に戻ってこられるのだろうか。

 この時期、私は妻の性被害にどこか現実感を持てないでいた。加害者への怒りや悔しさはないわけではなかったが、あまり意識にのぼらなかった。目の前で起きていることへの対処と仕事をこなすことで精いっぱいだった。

 心境が変化したのは、被害発覚から1年ほどたったころだった。はけ口のない怒りをもてあまし、苦しむようになった。

 妻が精神科に入院するようになってから、私は加害者に法的手段を取ろうと少しずつ準備を始めた。弁護士会の無料相談で刑事告訴や損害賠償請求の方法について話を聞き、似た事件の判例を調べ、女性の人権問題を手掛ける弁護士もリストアップした。