なぜ妻は苦しむとわかっていて酒を飲むのか
妻はベッドで昏々と眠っていた。ヘルパーは2人がかりで大量の嘔吐物を片づけ、彼女をベッドに運んでくれていた。
4日前からひどい酔い方が続いていた。きっかけは、抗酒剤といわれる処方薬だった。
抗酒剤は体内のアルコール分解酵素の働きを阻害する作用がある。そこに酒が加われば、動悸、頭痛、息苦しさなど悪酔いと同じ状態になるため、服用することで飲酒の歯止めにできる。
それまで治療プログラム、自助グループ、専門病棟への入院など定石とされる治療法がいずれも功を奏さなかった妻にとって、この薬は断酒の切り札だった。彼女は専門医の説明に納得したうえで、朝一番で服用した。私は「これで酒が止まる」と期待した。
だが、あっさり裏切られた。彼女はふだん通りに飲んだ。当然ながら頭痛やめまいを起こし、激しく嘔吐した。専門医は「抗酒剤とアルコールを一緒に飲むことは危険」として服用中止を言い渡した。
万策尽きた。
一方で、疑問も浮かんだ。苦しむとわかっていて、なぜ飲むのか。
本人に理由をただすが、「わからない」と言うばかりだ。患者が抗酒剤を嫌がるケースは聞くことがあるが、妻のように服用後にあえて飲酒を繰り返すケースなんてあるのだろうか。
気になったのは、彼女のもの忘れがひどくなっていることだった。
さっき見たばかりのドラマの内容を覚えていない。すでに家にあるみそやマヨネーズをいくつも買ってしまう。近所の歯科に行こうとして道に迷う。今日が何日か、何曜日かもわからない。
依存症の本を読むと、アルコール性認知症という疾患があるらしい。もしかすると彼女はこのタイプの認知症になっていて、抗酒剤を服用したことを忘れて飲酒したのではないか。
ただ、もの忘れは単なる酩酊によっても起きうる。まさか46歳で認知症なんて、とも思う。その可能性について、専門医は否定的だった。
この年、妻の身体合併症はいっそう重篤になっていた。
4月、内科の入院で肝硬変と診断された。「酒をやめないと、大量吐血や肝臓がんで命を落とすおそれがある」。内科医は厳しい口調で諭した。
6月には、大腿骨の上部(骨頭)が壊死する国指定難病「大腿骨頭壊死症」が判明した。前年暮れから妻は左足付け根の激しい痛みを訴え、しだいに歩くことすら難しくなっていたが、これが原因だった。やはり飲酒の影響とみられる。晩年の美空ひばりが苦しんでいたことで知られる病気だ。
ほかにも吐血、下痢、腹痛、酔ったふらつきによる火傷には日常的に見舞われた。
もはや断酒に一刻の猶予も許されない。でも、彼女は飲み続ける。私はただ焦りだけが募った。
こんな生活から早く解放されたかった。寝不足が続いて体が重く、頭もぼんやりしている。「このまま肝硬変が悪化して死んでくれないか」と願ってしまう自分もいた。
転機は思わぬかたちで訪れた。