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 これに対し、美輪は同じ芸能界に生きる者として《芸能界もスポーツ界も、一つの才能だけで一生食べられるという保証はどこにもない。(中略)わたくしだってシャンソンだけを歌っていたら、とっくにつぶれていました。実際、一時は食べられなかったですし》と理解を示したうえ、自分はそれゆえに自ら作詞・作曲して歌うようになり、舞台でも演出などすべてをこなし、さらに身の上相談や時事評論などにも手を広げてきたとして、《引き出しをたくさん持たなくては続かない。自分が“総合商社”にならないと》と諭した。

©文藝春秋

 かつて小説一本に絞ったはずの瀬戸内も、美輪に言わせれば、《出家なさってからの瀬戸内さんは、世界の広がり方が普通じゃない》ということになる(※5)。これについて本人は《広げようと思って、広げたんじゃないんですけれども、こんなになっちゃったんですよ(笑)》と述べつつ、《出家してとても便利になったのは、何をしてもいいということなんですよね。出家しているんだから、何をしてもいいと(笑)。それはとても自由ですよ。こんな自由なことはないですね》と語った(※5)。

美輪が語った、瀬戸内の「功績」とは

 瀬戸内は出家してからというもの、それまで見えなかった霊のようなものなどが見えてきた一方で、「人間のいざこざとか、わずらわしい心理劇」といったものは見えなくなり、興味がなくなったという。これを聞いた美輪は《出家した途端に、現世の人々の憎んだり、苦しんだり、呪ったりとか、そこら辺がどうでもよくなって、見えなくなったとおっしゃるわけね? それは、わかります。私もそうでしたから》と共感を示し、互いに時間と空間から離れたところに生きているのだと指摘した(※5)。二人が人生相談の回答者として信頼を集めたのもうなずける。

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©文藝春秋

 瀬戸内が亡くなったとき、美輪は《一番の功績はやっぱり人助けでしょうね。自然体で人々の相談に乗っていた内容が人々の口づてに広まって、大勢の人が寂聴さんを頼るようになりました。(中略)ご自身が色んなことを体験なさっているから、他人の気持ちが分かったのだと思います。何十人分かの人生をくぐりぬけてきたからこそ、しっかりとした身の上相談も受けることが出来たのでしょう》と、親友をしのんだ(※6)。ここで語られていることは、美輪自身にも当てはまるはずだ。

 反骨・反逆の精神をもって人生をくぐりぬけてきたがゆえ、他人に対し、ときに辛辣な態度をとりこそすれ親身になって相談に乗ることができた。だからこそ、いまなお多くの人が二人の言葉を求めるのだろう。

※1 『婦人公論』2012年9月22日号
※2 『アサヒグラフ』2000年6月2日号
※3 瀬戸内寂聴・美輪明宏『これからを生きる人へ』(PHP文庫、2018年)
※4 『すばる』2000年10月号
※5 瀬戸内寂聴・美輪明宏『ぴんぽんぱん ふたり話』(集英社、2003年)
※6 『朝日新聞』2021年11月12日付朝刊