長慶天皇は武勇とともに文学にも造詣が深く、『仙源抄』という『源氏物語』の注釈書も残している。それを知った美輪から瀬戸内は、あなたが『源氏物語』の現代語訳を始めたのは天台寺に晋山してからではないかと言われ、初めてそうだったと気づいたという。一連の「瀬戸内源氏」の最初の作品となる『女人源氏物語』を書き始めたのは、たしかに天台寺に来た頃だった。のちに取り組んだ『源氏物語』現代語訳は売れに売れ、また天台寺での「あおぞら説法」にも大勢の人が来るようになり、寂聴ブームが巻き起こる。まさに美輪の言っていたとおり「いい意味で大変なこと」が起こったのである。
美輪が霊視した、瀬戸内の“前世”
ちなみに瀬戸内は美輪から当初、あなたの前世は長慶天皇のそばで墨をするなどしていた小姓か何かだろうと言われ、内心「どうせなら、寵妃の一人くらいだと言ってほしいなあ」と思ったという(※2)。
これについて美輪は、のちに再び対談した際(※4)、《あのときには、あなたの前世がわからなかったのね。でも、ある日、ふっと見えたのよ。(中略)白拍子の格好をして、舞っているのね、瀬戸内さんが(笑)》、《それも、すごく当時には珍しい、インテリの白拍子。読み書き百般ができる才色兼備の白拍子だったらしいのね。それを気に入られて、御所に側室として上がっていたらしいのよ》と“訂正”している。これには瀬戸内も《えっ、私が側室!(笑)でも、ほんとに踊りは好きなんです。ダンスなんかも習わないのに、ちゃんと踊れるの。タンゴまで踊れる。阿波踊りも踊れるし》とご満悦の様子であった。
なお、美輪は誰に対しても霊視できるわけではなく、瀬戸内や、やはり交流のあった三島由紀夫といった人たちのときだけなぜか霊視できてしまう、《お役目の時にフッと降りてくるという感じ》なのだという(※3)。
「出家してとても便利になった」
冒頭に引用した藤原竜也を交えての鼎談では、当時30歳だった藤原が《いつまでこの仕事を続けられるかわからない、という不安もあります。仕事をなくすことになるかもしれない。そうなったら、故郷で喫茶店をやるのもいいかな、と思ったりもします》と打ち明けたのに対し、瀬戸内と美輪がちょっと違った反応を示したのが興味深い。
瀬戸内は、妻や母などすべての選択肢を捨てなければ文学にエネルギーを集中できないと思い、小説の才能にのみ賭けた自身の体験から《あなたもせっかく15歳から演劇をやっていて、才能もあるのだから、これ一本で行くと覚悟を決めなさいよ》と迫った。