二人の出会いは、それぞれ瀬戸内晴美、丸山明宏と名乗っていた頃にさかのぼる。当時、「ヨイトマケの唄」を歌ってヒットさせていた美輪の自宅を、瀬戸内が雑誌のインタビューのため訪ねた。このとき、ひときわ瀬戸内の印象に残ったのは、押し入れを改装した仏壇で、ビロードの布で覆った扉を開くと大きな金色の位牌が並んでいた。まだ仏門に入る前で、およそ宗教心など抱いてなかった瀬戸内は、まだ若い美輪の仏教趣味にびっくりしたという(※2)。
瀬戸内はそれ以前にステージで歌う美輪を見ており、歌のうまさもさることながら息を吞むほどの美貌に一目惚れしてファンになった。美輪もまた瀬戸内に出会う前から、彼女の小説『女徳』を読んで「この著者は面白い方だな」と思っていた。
『女徳』は新橋の人気芸者から、のちに尼僧となった実在の女性(高岡智照)をモデルに、その男性関係を含め波瀾万丈の人生を描いたものだった。あとから振り返れば、瀬戸内自身の人生を暗示したかのような作品を通じてこの作家を意識したあたり、自分と瀬戸内の関係性に因縁めいたものを感じると、美輪は対談で語っている(※3)。
二人の距離がぐっと縮まったのは、出会いからさらに25年ほど経ってからだ。この間、瀬戸内は1973年に得度して法名・寂聴を与えられ、翌年に開いた京都・嵯峨野の「寂庵」を拠点としながら、1987年には人から請われて岩手県の天台寺の住職となっていた。
美輪明宏の「予言」が的中
しかし、徳島出身で京都に住む自分がなぜ東北の岩手の寺に入ったのか、理由がわからなかった。どうしても知りたくて、美輪に話を聞きたいと思っていたところ、偶然にも新幹線で隣り合わせる。瀬戸内の疑問に、そのときは美輪も答えられなかったが、後日、雑誌の対談で一緒になったとき、帰りがけに瀬戸内の前を見ると、殿上眉で公家のような髷を結ったハンサムな中年男性の首が浮かんで見えた。それに心当たりがないかと訊かれた瀬戸内は、すぐさま長慶天皇を思い出した。
長慶天皇は南朝の3代目の天皇で、足利幕府に追われて奈良の吉野から東北に逃げ落ちた末、天台寺で崩御したとも伝えられる。寺には天皇が葬られたとされる墓もあった。美輪はそれを聞いて、長慶天皇は前世で縁のあった瀬戸内を天台寺に呼んだのだと確信し、本尊の観音像と同様に祀れば、いい意味で大変なことが起こると助言した。瀬戸内はそのとおり、さっそく長慶天皇のため金泥の大きな位牌をつくり、さらには后や忠臣たちの位牌もつくって丁重に供養した。