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プロで生きるならこういう手があるのか、と

 01年、リーグ戦初スタメンの磐田戦で初ゴールを決めたものの、相手選手と言い合いになりレッドカードを出されて退場。ああ、やっちゃった、ヤバいと思ったんですけど、次の日のスポーツ新聞を見たら、僕が1面になっていた。その時に、プロで生きるならこういう手があるのか、と気づかされたんです。

2016年、川崎フロンターレ時代の大久保選手(撮影:杉山拓也/文藝春秋)

 高校卒業してすぐセレッソ大阪でプロキャリアをスタートできたものの、すぐには活躍はできなかった。アンダー日本代表で一緒だった仲間たちはそれぞれにチームで活躍し始めている。焦りましたねえ……。それにセレッソには先輩レギュラー陣がひしめいていましたし、18歳の新人がその一角に食い込むには、何か他の選手と違うことをしなきゃいけないと考えていたんです。

 そんな時に一発レッドを食らい退場になったことが、新聞の1面になった。プロは注目されてなんぼなので、僕はピッチで闘争心を剥き出しにするスタイルで行こうと、その時に決めましたね。

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バッシングよりもピッチから消えていく方が怖かった

――でもイエローやレッドカードを貰うと、批判の対象にもなります。

大久保 そう。ファンだけでなく、チームのフロントやチームメイトからも批判されます。当時の社長からも散々怒られましたよ。

 特に負け試合の時、チームメイトの冷たい視線は辛かったですね。「お前のせいで負けた」と言葉に出して言われたこともあるし。ロッカーでも「ああ、俺の居場所がないな」って。

 僕は本来メンタルが弱いので、「強気ポーズは止めようかな」と考えたこともあるけど、でも自分にプレッシャーをかけないと成長はないし、プロでは生き残れないと考え、強気な姿勢を取り続けましたね。

「バッシングよりもピッチから消えていく方が怖かった」(撮影:深野未季/文藝春秋)

――191得点はJリーグ最多得点ですが、イエローカード104枚、レッドカード12枚も日本人選手最高です(笑)。

大久保 若い頃は自分の生き残りを賭けてキレやすい自分を演じていましたけど、ベテランになってからは、敢えて闘争心を剥き出しにしていました。みんな大人しくピッチでまとまってしまっているので、チームを鼓舞するために。

 ただ、息子たちが成長すると「学校でなんか言われるんじゃないか」と心配しましたね。「お父さん、また退場したね」と息子たちがいじめられるんじゃないか、って。でも、そんな心配は杞憂だった。

 イエローやレッドをもらうたびに批判やバッシングは矢のように浴びせられ辛かったけど、自分らしさがなくなってピッチから消えていくことの方が怖かったんですよ。