「今年のオフは、15人くらいの戦力外が出るらしい。寮生も例外じゃないみたいだ……」
寮にいる選手全員を集めて堂上は言った。
「寮生も例外じゃない」という言葉に、その場の空気が急に張りつめた。
堂上によれば、監督となった落合は1人もクビにすることなく現有戦力で1年目を戦うと約束した一方で、シーズンが終われば、必要ないと判断した戦力を、数を限らずに切り捨てるつもりだという。
プロの世界に抱いていた幻想
それまでの中日には選手寮にいる選手─原則として高卒4年、大卒2年─はクビにならないという暗黙のルールがあったが、落合のメスに聖域はないのだという。
堂上の話を聞き終えた後、小林の心臓は早鐘を打っていた。
クビになるのは……俺だ。
東海大学からドラフト6巡目で入団して2年目だった。プロに入ってすぐ入籍した妻と生まれたばかりの娘がいた。社会人として家庭を築いた一方で、投手としてはまだ半人前だった。一軍のマウンドに上がることすらできていなかった。稼ぐどころか、プロになって手にしたものといえば、劣等感ばかりだった。思い描いていた世界とはまるで違っていた。
小林がこの世界に抱いていた幻想は、ある1枚の写真に象徴されていた。
いつも持ち歩いていた写真
18歳になる春、小林は群馬の強豪・桐生第一高校のエースとして関東大会に出場した。その開会式でポケットに使い捨てカメラを忍ばせていたのには理由があった。同じグラウンドに並ぶ、横浜高校のエース松坂大輔と記念撮影をするためだ。
式が終わると、小林は松坂を囲む多くの人波をかき分け、本人の元へたどり着いた。すでに全国に名を知られていた松坂は桐生第一のサウスポーの名前に聞き覚えがある様子だった。そのことが誇らしかった。丸刈り頭の2人で同じフレームに収まった1枚は、小林に不思議な力を与えた。
最後の夏は甲子園の1回戦で敗れたが、群馬に戻ってからも、テレビの中の松坂に釘付けになった。PL学園高校との延長17回の死闘も、翌日の準決勝でテーピングを剥ぎ取ってマウンドに上がった姿も、そして決勝でのノーヒットノーランも、松坂が甲子園のスターになっていく姿を、まるで自分のことのように目に焼きつけた。
そのころの小林はいつもあの写真を持ち歩いていた。それを見ると、何だってできるような気持ちになった。自分も世の中が呼ぶ「松坂世代」の一員であり、彼を筆頭にして並んだ星のひとつなのだという事実が未来を明るく照らしてくれるような気がしていた。
だが平成の怪物から遅れること4年、大学を経てプロの世界に入ってみると現実を突きつけられた。