「松坂世代」として高校時代から注目を集める選手でありながら、プロ入り後は目立った成績を残せず、毎年クビになることを恐れていたという小林正人。そんな彼にとって大きな転機になったのが、落合博満監督、そして、森繁和投手コーチからのある一言。そして、かつて、西武ライオンズの黄金時代を支えたある投手の存在だった……。
はたして、小林正人はいかにして、チームに欠かせない控え投手になったのだろうか。ここでは、第53回大宅壮一ノンフィクション賞、第32回ミズノスポーツライター賞最優秀賞に輝いたフリーライター鈴木忠平氏の著書『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』(文藝春秋)の一部を抜粋。選手の適性を見込んで伝えた、あるアドバイスについて紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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メンバー表に列記されたピッチャーたち
小林正人は毎年2月になると決まってパズルを始めた。プロ野球のキャンプインに合わせて作成されるB4サイズのメンバー表を手に、投手陣の顔触れをじっくりと眺める。
まだシーズンの殺伐とした空気からは遠い沖縄のホテルの一室で海風を感じながら、それを元に頭の中でパズルをする。
今年も自分の居場所はあるか?
人間と人間の隙間を見つけだす、人生をかけたパズルである。
2011年シーズンを前に、中日からは5人の投手が去り、4人の投手が入ってきた。そのうち小林と同じ左投げは2人─大学出の新人投手とベネズエラからやってきた28歳の外国人選手だった。とくに外国人のことは気になった。
先発なのか、リリーフなのか。どんなピッチャーだろうか。
小林はメンバー表に列記されたピッチャーたちの名前を見渡してみた。
エースの吉見一起を筆頭にセットアッパーの浅尾拓也、ストッパーの岩瀬仁紀ら替えの利かない巨大なピースから、俗に敗戦処理と呼ばれる小さなピースまで、一軍のベンチという限られた枠に当てはめてみた。そうやってパズルは進んでいく。新しい助っ人のことは気になったが、不安で眠れなくなるようなことはなかった。小林には自負があった。
寮生も例外なく、15人を戦力外に
このチームには、自分というピースでしか埋められない役割がある。
それはプロ9年目でようやく辿り着いた境地だった。
かつての小林は冬が終わってキャンプが始まり、木々が芽吹くころになると、いつも不安に襲われていた。
今年こそクビかもしれない……。
怯えながらも、行くべき道がわからずに彷徨っていた。振り返ってみると、葛藤の出発点は、落合が監督としてやってきたばかりの春であった─。
「お前たちに、言っておかないといけないことがある」
落合が中日の新監督に就任してまもない2004年の3月のことだった。ナゴヤ球場に隣接する選手寮「昇竜館」のロビーには、館長の堂上照が強ばった顔で立っていた。