マウンドにやってきた落合の一言
だから結果が出ないときは、かつてのように上から投げてみたこともあった。随分とスムーズに投げられるように感じた。ただその度に、心の底に残っている未練に気づき、それを振り払うように自分に言い聞かせた。
俺は何のために、下から投げると決めたんだ……。
世代トップランナーである松坂の背中を追うのではない。誰とも違う道をひとり歩く。盤上のある一瞬だけ光を放つ駒になるのだ。その先に生きる道があるはずだと、小林は信じた。一寸先も見えない闇のなかでは、そうするしかなかった。
ようやく生きる道が見えたのは6年目を迎えた2008年のことだった。
開幕まもない阪神とのナイトゲーム、小林は同点の7回からマウンドに上がった。ツーアウトながら2塁にランナーを背負い、打席に3番の新井貴浩を迎えていた。落合がベンチを立つのが見えた。
ああ、交代か……。
小林はそう判断した。おそらく次の1点が勝敗を分ける。右の強打者を迎えた場面での降板は無理もないことのように思えた。
だが、マウンドにやってきた落合は予測とはまったく逆のことを言った。
「勝負だ」
抑揚のないその声を聞いて、小林はあえて右バッターの新井と勝負するのだと理解した。左殺しである自分への指示としては妙な気もしたが、落合が言うのであればそうするしかない。
投手としての道
すると、正捕手の谷繁がマスク越しに小林の目を見て言った。
「お前、わかってるか? 新井を敬遠して、金本さん勝負ってことだぞ」
それを聞いて、小林は頭が真っ白になった。
タイガースの4番金本は左打ちだったが、投手の左右に関係なく、リーグで最も対戦を避けるべきバッターだった。毎年のように30本以上のホームランを放ち、とりわけ勝敗を分ける場面では他に並ぶ者がないほどの強さを発揮する。だから、どの球団のバッテリーも勝負どころでは金本を1塁へ歩かせていた。
そんな打者と勝負しろ、と落合は言った。小林の全身を高揚感が駆け巡った。左を殺す。そのための駒として認められた瞬間だった。
新井を歩かせて塁を埋めると、スタジアムがどよめいた。阪神ベンチもざわついていた。何より静かに打席に入ってくる金本からただならぬ空気が漂っていた。小林はかつての永射と同じようにゲームのヤマ場で最強の左バッターと向き合った。
鼓動が速くなり過ぎたためかもしれない。結果的に金本にはフォアボールを与えた。試合は引き分けに終わった。多くの者にとっては長いシーズンの、ある一試合に過ぎなかったかもしれない。ただ、ゲーム後も小林の胸は痺れたままだった。松坂に出会ったころの誇らしさが微かによみがえっていた。投手としてどう生きていくのか、その道が見えた気がした。
小林が春を怖れなくなったのは、それからだった。
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