アムステルダムでブレイクした昆虫画家
次は首都アムステルダム。ここには外国からの移住者もおおぜいいた。その一人が、ドイツ人女性昆虫画家マリア・シビラ・メーリアン(1647~1717)。
彼女の父マテウス・メーリアンはスイス出身の画家兼出版業者。ドイツで活動し、フランクフルト一の大出版社を経営した。同名の息子(マリアにとっては異母兄)がその事業を引き継いでさらに拡大させた。マリアの母はオランダ人。マテウスの2番目の妻だった。
マリア・メーリアン(以後、メーリアンと表記)は子供時代から「虫愛づる姫」で、日がな一日、拡大鏡を使って小さな生きものを観察し、それをスケッチして飽きることが無かった。ファーブルが生まれる二百年も昔である。一般に虫は泥から湧いてくるとされ、変態についての知識もほとんどない時代、彼女はすでに幼い自然科学者だった。
18歳になると母に半ば強いられて、父の徒弟と結婚、二女をもうける。画才のない夫は生活能力もなかったため、メーリアンは芋虫の変態や花束の画集を出版して支えた。ようやく夫が離婚に同意したのは1691年、メーリアン44歳の時。彼女は娘たちを連れ、母方の故郷アムステルダムに移住する。
この頃のアムステルダムには、画家が500人もいた。最盛期には700人を超えていたのでかなり減ってはいたものの、景気後退もあって生き残り競争はなお熾烈だった。絵の制作だけで生活をたてるのは容易ではなく、さまざまな兼業画家が多かった。そんな中、子持ちでバツイチで外国人女性というハンディキャップもものかは、メーリアン母娘の生活は順調だった。彼女の作品が唯一無二だったからだ。
一枚の画面に、卵、芋虫、繭、成虫というメタモルフォーゼを、その昆虫の隠れ処で且つ餌でもある花や植物とともに描く。しかも無味乾燥な学術書の挿絵風ではなく、大胆で独特な構図と美しい色彩、何より自然の驚異に対する彼女自身の讃嘆が伝わってくる表現を、親譲りの銅版画技術を駆使して制作。純粋な絵画愛好家にも、自然科学好きにも熱烈に歓迎された。