ノンフィクション作家・川内有緒さんが昨秋上梓した『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』。タイトル通り、白鳥建二さんという全盲の美術鑑賞者とともに、美術館を訪れてはアート談義を重ねたことをテーマにしたノンフィクションだが、この本の帯に言葉を寄せたのが、ダウン症の弟と車椅子ユーザーの母との日々を綴った『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』がベストセラーとなった作家・岸田奈美さん。二人が語る「わかりあう」と「わかりあえない」の間とは。(全2回の2回目。前編を読む)

一緒の空間にいて、一緒に感じることの意味

川内 単に障害のある人と、ではなくて、共通の趣味のアートを通じて話ができたのも、私たちには非常に大きかった。アート作品と並走しながら本をつくっていけた。

岸田 実は私、アート鑑賞って小さい時から苦手だったんですよね…。なんかね、芸術は正しく見なければ、というのがあって。

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 私、小学校に入ってから、劣等感がすごくて。

川内 本にも書かれてましたね。

 

岸田 「私は家ではこんなに愛されてるのに、どうして学校では愛されないんだ」って、すごい傲慢な子供だった。私が愛されないはずはないって。とにかく褒められたかったんです。

 でも、学校行事で美術鑑賞に行ったら、賢い子供がとても立派な感想を言っている。「フェルメールの光の描き方が~」みたいな。

 私にとってのリアルな感想は「すげえ」しかない(笑)。

 細部まで見てそれを言語化できたり、技法や歴史といった知識を語ることが美術鑑賞なんだ、と思った瞬間に、楽しくなくなってしまって。

 

川内 私の中にもそういう思い込みがありました。でも、そうじゃないんですよね。

 白鳥さんにもよく、音声ガイドをすすめる方がいるんですけど、まったく興味を示さない。彼は、自分は作品に関する知識や背景を知りたいんじゃなくて、その場にいる人の言葉が聞きたいだけなんだ、と。

 仮に言葉が出なくても、シーンとなったり、はあっ、ってため息をついたり、それだけでも白鳥さんはすごく満足するんだそうです。その瞬間に立ち会えて、それを聞けた。そのことを通じて、自分は“鑑賞”をしているんだって。

 それを聞いたときに、私の中にそれまであった「アートの見方」がガラガラって入れ替わったんです。そっか、沈黙ですらいいのか。それは素晴らしいな、と。

 一方で、こういう対話型鑑賞って、特に学校の授業で行う時は、「全員が発言をしましょう」というプレッシャーもあったりして。白鳥さんが「黙っている子がいてもいいですよ」って言うと、先生はびっくりしちゃうらしい。謎の平等主義ですよね。