人の表情や、天気、周囲の環境など、「写真」の仕上がりはさまざまな条件に大きく左右される。しかし、偶然に身を任せるばかりでは、事前に思い描いた理想の写真は撮れない。それでは、写真家は魅力的な写真を撮るためにいったいどのような工夫をしているのか。
ここでは、写真家・作家の小林紀晴氏の著書『写真はわからない 撮る・読む・伝える――「体験的」写真論』(光文社新書)より一部を抜粋。小林氏が女優・鶴田真由氏の写真撮影を行った際の現場への臨み方を紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)
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フォトグラファーはスポーツ選手と似ている
単純に比べられるものではないが、写真に対して文章はかなり自由だ。昨日のことをいま起きているかのように書くことができる。それは100年前のことであっても同様だ。だから時代小説が成立するし、雨の日を晴れた日に置き換えて書くこともできる。それに対して写真は雨の日には雨の日の写真しか撮れないし、晴れた日には晴れた日の写真しか撮れない。何より、その場に身を置いていなければならない。よりフィジカルである。
だからだろうか、私はフォトグラファーをスポーツ選手に似ていると感じることがある。例えばサッカー選手を頭に思い浮かべる。試合は「いま、ここ」でしか成立しない。選手は絶対にその日、その場にいなくてはならない。海外のチームに移籍するとしたら、その国に住む必要がある。当然、その国の言葉を理解し、話す必要がある。文化、気候などにも慣れる必要がある。つまり、競技以外の部分でも順応する必要がある。そんなことも含めて、フォトグラファーはスポーツ選手と似ていると思うのだ。
例えば、海外のどこか特定の場所を長く撮影するとしたら、当然、そこに暮らす必要があるし、そこの人たちに受け入れてもらう必要がある。そのためには言葉を覚え、現地のものを食べなくてはならないし、やはり順応しなくてならない。撮影以前に、このことが大きな鍵となる。
「いま、ここ」という写真の大前提の上に作品が成立していることがわかっていただけるだろう。
「いま、ここ」に対してどう臨むか
では写真を撮る者は「いま、ここ」に対していかに臨んでいるのか。常に偶然に身を任せているのだろうか。そうともいえるだろう。確かに、その要素はかなり大きい。ただ、それだけではない。実はかなりコントロールしている。
スタジオで撮影者が完全にライティングをコントロールして撮影する際には、光に関しては偶然が入り込む余地はかなり少ない。スタジオでの物撮り(静物)ではその余地はさらに限られるだろう。ただ、同じスタジオでもポートレート撮影の場合、人物に対して100%コントロールすることは不可能なので、偶然の入り込む余地は十分にある。