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 日本のお祭りなどの撮影に積極的だった芸術家の岡本太郎はかつて、写真とは「偶然を必然に変える」表現だと言葉にしている。とても興味深い発言だ。写真だけをやってきた私のような人間には、なかなか浮かばない発想である。おそらく、真白なカンバスにゼロから線を描き、色を塗っていく絵画は偶然だけでは絶対に描けない。根幹には必然があるだろう。

偶然に身を任せるだけで写真は成立するのか

 それに対して写真は、確かに偶然の要素が高い。それに支えられているといってもいい。たまたまきれいな朝日が出た。たまたま富士山が見えて夕陽が雪の斜面を赤く染めた。そのときカメラを持っていた。だから素敵な写真が撮れた。そんなことは日常的に十分にありうる。写真を撮る中で、いかに「いま、ここ」が重要であるかに気がつく場面でもある。

 偶然の要素が大きいのは、人間は自然に対してとにかく受け身でいざるをえないからだ。いうまでもなく自分の意志で日の出の時間をコントロールすることはできないし、曇りの日を晴れにすることも、きれいな夕焼けを呼んでくることもできない。コントロール不能の要素が実に多い。だから受け身で臨むしかない。このことは疑いようがない。

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 ただ、偶然に身を任せるだけで写真は成立するだろうか。写真を撮る者は、そのあたりをどんなふうに考えているのか。偶然をどこまでよりどころとしているのか。逆に、どこまで能動的になることが可能なのか。予測し、どこまで計算できるのだろうか。このあたりのことは、これまであまり多く語られてきていない気がする。このことについて、私はこんなふうに考えている。

©iStock.com

女優・鶴田真由を南インドで撮影

 大げさな言い方かもしれないが、写真は人生と似ている。私たちは、自分の思い通りの未来を歩むことはできない。でも、ある程度の予想や予測を行いながら日々を送っている。それでも、想定外のことは当然ながら起きる。ただ、あらかじめ何も描かないで日々を送っているか、そうでないかで、未来は変わってくるはずだ。

 数年前、写真集を作るために女優の鶴田真由と南インドに10日ほどロケに行ったことがある。そこで、何をどのようにして撮影したかを話してみたい。まず最初に、下の写真を見ていただきたい。

©Kisei  Kobayashi

 この写真からどのようなことが読み取れるだろうか。まず最初に注目してほしいのは、光源がどこにあるかだ。つまり、太陽光がどんなふうに差しているかだ。身体のすぐ後ろにある影から、左の方向から差しているのがわかる。角度はどうだろうか。けっして高い位置からではない。これらのことから、この写真が朝、あるいは夕方の太陽が割と低い位置にある時間帯に撮影されたことがわかるはずだ。