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「ゲッツ!」が売れたときはすごかった

社長 アイドルタレントはこちらが全部作り上げて路線に乗せていくという作業ですが、お笑いってそうじゃない。芸人は自分たちでネタも演じ方も考え、衣装を選び、お客さんの反応を見ながらさらに進化させる。クリエイティブな職業です。社内でも最初はだいぶ抵抗を受けましたよ、なんでアイドル事務所がお笑いをと。「それは吉本さんに任せればいいんじゃないですか」なんて(笑)。

 反対の声には、「お笑いもいれば前座もできるし全部ウチで賄えるじゃないか」なんて詭弁も使いつつ試行錯誤していきましたが、なかなか厳しかった。

©文藝春秋 撮影/深野未季

副社長 しんどかったですね。「(売れっ子輩出まで)5年いただけるのなら」と言ったものの、実際5年後にダンディ坂野がいきなり売れるまでは肩身が狭かったです。

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――1999年に「爆笑オンエアバトル」(NHK)、2000年には「内村プロデュース」(テレビ朝日)、そして2002年には「エンタの神様」(日本テレビ)などお笑い番組がスタートしています。狙い通り、お笑いブームが再来しました。

社長 「あ、来たな」とは思っていました。でもその波のなかで売れたのが「ゲッツ!」のダンディ坂野だったのはびっくりしました。あの時はすごかったですからね。

色とりどりのお笑い芸人が80組所属

副社長 ダンディ本人はあまりの生活リズムの変わりように「2、3か月でボーっとした」って言ってましたよ。売れる前は、僕らブッチャーブラザーズの弟子生活をしていましたから。「『ゲッツ!』のネタ一本でいけ」と応援し続けて、マツモトキヨシのCMと内村プロデュースで急激に知名度があがりました。

2012年11月12日、ダンディ坂野

社長 真っ白なスケジュールが、いきなり真っ黒になりましたからね。あのときはまだお笑いのスタッフも3、4人しかいなくて追いつかなくて。だからかつて松田聖子が爆発的に売れたときを経験している歌の班のスタッフも総動員で手伝いました。

 でも、嬉しかったですよ。正直な話、それまでは役員会でも「いつになったらお笑いは採算がとれるのか」と、針のムシロみたいでしたから(笑)。私はどうしても“社長の息子”だというのがありましたし、別業種から中途入社した身でもありましたから……。

――そこから20年。プロダクションのホームページのお笑い部門には80組もの所属がいますね。

社長 実際は預かっている芸人も含め、それ以上にいると思います。皆に慕われ中心になってくれている(カンニング)竹山君や、“優しい漫才”という新しい分野開拓に成功したぺこぱ、“オタク”なカズレーザー(メイプル超合金)などなど、色とりどりですね。