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“2代目”がサンミュージック入りしたワケ

――経営上の収益としてはお笑いが大きいですか?

社長 お笑いの割合が大きいのは確かです。この2年以上のコロナ禍で、歌手は新曲リリースのキャンペーンができなかった。その点、バラエティ番組に出演ができるお笑いは強かったですね。あと芸人は世間からの認知が高いので、コマーシャルの起用が多めなのもコロナ禍では非常にプラスとなりました。

――振り返ると相澤さんはアメリカの大学を卒業後、旅行会社に就職をしました。

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社長 タダで旅行できるところがないかなって探して(笑)。親父も、「(芸能界に)来なくていい、好きなコトやれ」という感じでしたから。僕は30歳でサンミュージックに入りましたが、きっかけとなったのは当時の総務部長の「30年後のサンミュージックのことを考えて、今から入ってくれ」という言葉でした。仕事を覚え、実績をつくり、人脈を作るのにはそれだけ時間がかかるよ、ということです。

©文藝春秋 撮影/深野未季

 ちょうど松田聖子がデビューする半年前。でも僕はマネージャーは希望せずに、企画制作のほうを選びました。コマーシャルの売り込みをしたりコンサートを企画したりという仕事です。

ハワイで「これまでにないアイドル」と出会った

――実は巷で言われている「早見優さんはハワイの三越でスカウトされた」というのは違うそうで。

社長 そうです。知り合いから噂を聞いた親父に言われて、ハワイにいた早見優(1982年デビュー)に最初に会いに行ったのは僕でした。日焼けした肌に健康美、ひと目見てこれまでにないアイドルのタイプだ、と。当時は「帰国子女で英語がペラペラ」とかいませんでしたからね。早見優のテレビ「アメリカンキッズ」は、僕が企画制作でプロデューサーもしていました。

早見優のデビューシングル

 彼女がやっていた、ヘアコロンシャンプー(資生堂)のイメージガールの後任を決めるオーディションを全国でやって、決勝大会を東京でテレビ局と組んで番組にしたり――。そんなことを全部自分でやれるという面白さが仕事を覚えていく醍醐味でした。そのなかで覚えざるをえなくなるのが著作権や著作隣接権、商品化権、意匠権、それに肖像権などの権利関係。こういうことを実践で覚えられていったっていうことは、親父に感謝しなきゃいけないですね。「勝手にやっていい」と、縛らないでいてくれたおかげですから。