1968年に創業し今年54年目を迎えた芸能事務所「サンミュージックプロダクション」。カンニング竹山隆範やダンディ坂野氏ら人気芸人が多く所属している。
しかし第1号タレントは、現社長の父である創業者・相澤秀禎氏がスカウトした森田健作氏(千葉県知事退任後は同事務所最高顧問に就任)。その後、桜田淳子や太川陽介、松田聖子や早見優、酒井法子に安達祐実など数多くのスターやアイドルを世に送り出してきた。
“2代目” 相澤正久社長も早見優や酒井法子を、企画制作の面から強力にバックアップして売り出した。しかし、2009年に酒井は元夫と覚せい剤で逮捕されてしまう。
「酒井が自殺でも選んだら……」
相澤社長の脳裏に浮かんだのは、あのアイドルだった――。
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正統派の素晴らしいアイドルだった
――サンミュージックの歴史のなかで、アイドル岡田有希子さんの死(1986年)はやはりとても大きいですね。
社長 非常に頭のいい、学業でも優秀なお嬢さんでした。でも思いつめやすいところがあって、それは僕らも心配していたんです。下宿をしていた社長(相澤秀禎氏、当時)の家から独立して、たった数日後のことでした。家に帰っても誰もいない寂しさもあっただろうし、これから一人で頑張っていくのかと考え込んでしまったんだと今でも思います。当時、男性関係とかを囁かれましたが、僕はそうじゃないと思っています。
――四谷4丁目の交差点にあった、サンミュージックの入っていたビルから飛び降りてしまうというのは衝撃的で、若者の後追いが社会問題になりました。
社長 はい。彼女にとってはやっぱりウチしかなかったんだという気がします。(自宅で自殺未遂を図り)病院からサンミュージックに戻ってきて、それからの出来事でした。責任感の強い子でしたから、「こういうことやったら会社に迷惑をかける」と思い詰めてしまったんだ、と。仕事は非常に順調で、「くちびるNetwork」がヒットしている真っ最中で。正統派の素晴らしいアイドルでした。
サンミュージックを離れてもファミリー
岡田有希子は亡くなる数日前に、デビュー直前の酒井法子に「Toのりっぺkun」と書いた写真パネルをプレゼントして、酒井はそれをすごく喜んでいました。
岡田有希子が亡くなったあと、会社の下にはたくさんの人たちが連日集まっていたのですけれど、その様子を見た酒井法子は、「ファンのひとに悲しみを与えちゃいけないんですよね……」って言っていたんです。そんなこともあったから、酒井が事件で連絡がつかなかったときには、岡田有希子のことが頭をよぎって本当に心配しました。
――オーディションにきた中学生のときから、かわいがっていたわけですから。
社長 高校時代には僕が勉強も教えた、まさに「娘」です。そしてあの事件のとき彼女には子どもがいた。僕が法子に話したのは、「とにかく離婚をして、立ち上がって前向きな姿を子どもに見せなきゃいけないよ」、ということです。それで彼女は心を入れ替えて、頑張ったと思います。