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「酒井法子がもし自殺でも選んだら…」サンミュージック相澤社長が語った“事件”の裏側とダンディ坂野大ヒットまでの苦節「売れるまでは肩身が狭かった」

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2022/07/09

genre : エンタメ, 芸能

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のりピー語、博多弁の寿限無…酒井法子の“魅せ方”

――そのオーディションに現れたのが、酒井法子さんですね。

社長 そうです。1985年の「ミスヘアコロン・イメージガール・コンテスト」の九州地区の代表としてやってきたのが、当時14歳の酒井法子でした。九州大会では、まだどこか田舎の雰囲気が残る子でしたが、2週間後の東京で会ったときにはガラっと雰囲気が変わりまるでレディのようでした。本選の特技審査のリハーサルでは彼女は落語の「寿限無」をやったんですが、本番になったら突然博多弁で披露したんです。自分の見せ方を知っていることに非常に驚きました。

1988年12月11日、恵比寿にオープンした酒井法子の店「NORI―P HOUSE」

 残念ながら彼女はそのオーディションでは1位になれなかったけれど、その努力や輝き方を見て、デビューを決めました。「のりピーマン」のキャラや「マンモスうれピー」なんてのりピー語は全部彼女が自分で作り上げたもので、人気を博していた台湾や香港なんかではたくさんの海賊版グッズも出ていましたね。1998年に香港で、僕がプロデュースした2万4000人を集めたコンサートをしたんです。そのときには日本から行ったファンは30人で、あとは全部現地のファンでした。

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自殺でも選んだら…心配だった6日間の逃走劇

――その直後に、結婚。そして2009年に元夫(当時)とともに覚せい剤での逮捕で世間を大きく騒がせることになりました。

社長 できちゃった結婚でしたからね。翌年にも香港でのコンサートが決まっていたのを、報告を受けて急遽延期してもらったり、と慌てたのはよく覚えています。

©文藝春秋 撮影/深野未季

 事件はもちろん全然想像もしていなかったけれど、やっぱり結婚相手がどうだったのかなと思いますよ。小さい頃から複雑な家庭環境で人間関係に苦労していたのか、まわりの人にとにかく気を遣う少女でした。だから、「みんなでファミリーになって、本音を言える関係を築こう!」ってやってきたんですけれど……。

副社長 15歳から芸能界で活躍していて、大人になってからの初めての知らない世界で。ワルっぽいところが魅力的に見えてしまったところがあるんでしょう。

――事件当時、逮捕まで6日間の逃走劇となりました。

社長 本当にあのときはどうしよう、と。記者会見を開いたものの、とにかく法子に、「なにも心配しないで戻っておいで」としか呼びかけられなかったですよね。

 特に僕が心配だったのは、岡田有希子のことがあったから。自殺でも選んだら……ってことでした。

その他の写真はこちらよりぜひご覧ください。

「酒井法子がもし自殺でも選んだら…」サンミュージック相澤社長が語った“事件”の裏側とダンディ坂野大ヒットまでの苦節「売れるまでは肩身が狭かった」

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