1ページ目から読む
2/3ページ目

 果たして劇中の長澤は、子供に無理難題を押しつけたり身勝手な母親ではあるけれど、ときおり思い出したように愛情を示すなど、複雑な役どころを見事に演じきった。息子を演じた新人の奥平大兼も、長澤に対し《親子役だったからだけじゃなく、現場で話しかけてくれたり、優しくしてもらって、すごくお母さん感を感じましたね》と明かしている(※3)。

©文藝春秋

 同作への出演にあたり、母親の存在の大きさに思い至ったのは、長澤自身が母親という存在に生かされていると感じていたからでもある。『MOTHER』公開時のインタビューによれば、母は《いつ会っても前向きなオーラしか感じないパワースポットみたいな存在》で、長澤が悩みを打ち明けるたびに素敵な言葉をかけてくれるおかげで、悪いことがあっても次はきっといいことがあると思えるようになったという(※4)。それ以前のインタビューでも、《母は私をとても厳しく育ててくれました。おかげで常識はずれにならずにすんだし、本当にありがたいと思う瞬間が多々あります》と語っていた(※5)。

デビューは12歳、先輩女優の言葉

 長澤が芸能界に入ったのはモデルの仕事に興味があったからだが、それも、小さいときから背が高くてやせていた彼女に、母が「モデルなんかいいんじゃない?」とさりげなく刷り込んでいたというのもあるらしい(※5)。

ADVERTISEMENT

 芸能界デビューは2000年、12歳にして「東宝シンデレラオーディション」でグランプリを受賞したのがきっかけだった。直後には映画『クロスファイア』に出演。同作で共演した桃井かおりは、まだ俳優をやりたいかどうかもわからないような女の子を、本当にこの業界に入れてしまっていいのかと心配して、彼女のマネージャーに「お願いしますね! ちゃんと責任とってくださいよ」と言ったという。長澤本人も「辞めていいのよ」と桃井から言われたのが記憶に残った。昨年刊行されたデビュー20周年記念の写真集では、現在米国在住の桃井とリモートで対談し、次のように当時を振り返っている。

『me―長澤まさみ写真集』(2002年)

《あの時はまだ12歳で、子どもだったからその言葉の真意がわからず、周りの大人がフォローするみたいな。でもなぜかずっと残っていて、折々に思い出されて。大人になって初めて、なんて深い愛情のある、そして役者の仕事の奥深さを感じる言葉なんだと理解できました。今まで続けてこられてよかったなって思えるし、これからもずっと続くのかなと思ってます。なんか、辞めてもいいし、続けてもいいじゃないですか、この仕事って》(※6)

女優を辞めようと思っていた時期

 高校在学中、映画『世界の中心で、愛をさけぶ』(2004年)で白血病の少女を演じて一躍注目され、ドラマでも『ドラゴン桜』(2005年)や『プロポーズ大作戦』(2007年)、『ラスト・フレンズ』(2008年)などのヒット作にあいついで出演した。しかし、デビューから10年が経った頃、自分に限界を感じ、この仕事にも業界自体にも向いていない気がして、一時は女優を辞めようと思っていたという。

『モテキ』(2011年)

 それを思いとどまらせ、彼女に転機をもたらしたのが映画『モテキ』(2011年)だった。監督の大根仁に会ったとき、《大根さんがすごく私に愛情をもって接してくれたんです。自分に対して愛のある人には出会っていかなきゃいけないんだなあと思った》という(※7)。幸運にもそんな出会いがその後も続いた。是枝裕和もその一人だ。

 是枝の監督作品では、綾瀬はるかや広瀬すずらとの姉妹役が評判をとった『海街diary』(2015年)以前に、『奇跡』(2011年)で主人公の少年の通う学校の教師役で起用された。それまでは映画でもドラマでももっぱら主要キャストを演じてきたが、『奇跡』以来、ちょっとした脇役での出演も増え、だんだんと自分の幅が広がっていった感じがあるという(※8)。