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「客席がサーッと引くのが手にとるように分かった」あの志村けんが…“石みたいだった”ドリフ新参者時代

『ドリフターズとその時代』#1

2022/06/17

source : 文春新書

genre : エンタメ, 芸能, テレビ・ラジオ, 読書

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荒井注がドリフで担っていた役割

 いかりやは、荒井がドリフの笑いのパターンをつくったと記している。殴られたときのリアクションが上手く、「逆ギレ」ともいえる反抗的な態度が笑いを生んだ。どれほどいじめても可哀想に見えないという点で、加藤とは正反対に位置するキャラクターだった。

 雑誌には加藤に次ぐ人気者と書かれたこともあり、どちらかと言えば玄人受けするコメディアンだった。ちなみに、「なんだ、バカヤロー」はリハーサル中にNGを出し、カメラに向かって思わず出た言葉である(『週刊文春』1999年4月22日号)。

©文藝春秋

 荒井はドリフ時代を次のように振り返っている。

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〈楽しいことは楽しかったよね。最初は自分でも気づかなかったんだけど、人を笑わせることが好きだったんだろうね。でも、忙しいのはごめんだったね。だから、その反動からわずかな時間をみつけては、夜中でも車を飛ばしてよく釣りに行ってたんだ。気を紛らすためと、少しでも都会の喧騒から離れたかったというのが本音だね。それと人間関係かな。どんな仕事をするんでも人間との付き合いは必要なんだろうけど、随分と難しいところにいたような気がするよ〉(黒井克行『男の引き際』)

 脱退は体力の限界だけでなく、生き方の問題でもあった。人生には仕事よりも大切なことがある。私生活を犠牲にしながらドリフに賭けるいかりやとは、相容れない考えだった。

 晩年は伊豆に引っ越し、釣りをしながら仕事があるときだけ上京する生活を送り、荒井は自分の生き方を全うした。荒井の目指している人生は自分とは違うのだと、いかりやが理解したのはずっと後になってからだ。

 荒井はドリフをすぐにでも辞めるつもりでいたが、協議の末、脱退の日は半年後の1974年3月末に決まった。それまでに荒井に代わるメンバーを育てなければならない。

 いかりやは当初、自分と仲の良かった豊岡豊(とよおかゆたか)を候補に考えていた。豊岡は「スイング・フェイス」を率いるバンドマスターで、いかりやより1歳年上の43歳だった。高木もその話を聞かされており、豊岡について次のように語っている。

〈ドリフは営業の仕事もいっぱいしてたんだけど、5人じゃできないんですよ。いつも後ろにフルバンドがつくんです。それが、「豊岡豊とスイング・フェイス」ってバンド。お笑いが好きな人で、ジョーク豊岡とか言ってましたね。〉(『文春オンライン』)

いかりや長介さん ©文藝春秋

 いかりやは、新メンバーには笑いだけでなく、音楽の才能も必要だと考えていたのだろう。高木によれば、『全員集合』で忙しくなってからも、ドリフはジャズ喫茶の仕事を続けていたという。ドリフはあくまでもコミック・バンドなのだ。そうである以上、新メンバーにバンドマンが選ばれるのは自然なことだった。

 だが、加藤が強く反対した。メンバーを変えるからには、むしろグループの若返りを図るべきではないか。加藤はいかりやに対して、自分よりも年下を入れてほしいと直訴する。

 加藤が推薦したのは、まだ23歳の志村けんだった。