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「客席がサーッと引くのが手にとるように分かった」あの志村けんが…“石みたいだった”ドリフ新参者時代

『ドリフターズとその時代』#1

2022/06/17

source : 文春新書

genre : エンタメ, 芸能, テレビ・ラジオ, 読書

note

推薦されたのは…新人・志村けん

 いかりやにとって志村は、いずれ独立するボーヤの一人にすぎなかったはずだ。バンドマンには移籍や引き抜きがつきもので、いかりやはそういう世界を生きてきた。彼がボーヤと、芸人の世界に見られるようなウェットな師弟関係を築いていたとは考えにくい。

 だが、ドリフの一員となれば話は別だ。それから30年にわたるいかりやと志村の関係は、愛憎入り交じりながら、ときに師弟、ときに親子、ときにライバルとなっていく。

 2人の年齢差は19歳あった。やがて志村がいかりやに反抗することになるのは、実の父との間に経験できなかった反抗期を取り戻すかのようである。

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志村けんさん ©文藝春秋

 まだマックボンボン(編注:志村けんさんが組んでいたお笑いコンビ)として活動していた1973年1月、志村は朝5時に「父危篤」の知らせを受けた。その日は三鷹市公会堂でテレビの収録があり、どうしても抜けられない。何とかもう一日だけもってほしいと祈りながら、志村は仕事場に向かう途中で何度も病院に電話を入れた。

 だが、公会堂に到着したとき、母から「今、死んだよ」と告げられる。事故の後遺症のために休職してから8年、54歳だった。志村はリハーサルを終え、2時間だけ会場を抜け出して帰宅している。だが、遺体とは対面しなかった。兄は、志村がぽつりと呟く一言を聞いている(『女性自身』2002年9月3日号)。

「死んだ親父を見ると、お笑いの舞台ができない」

 志村は再び会場に戻り、本番に臨んだ。父にドリフの「志村けん」として活躍する姿を見せることはできなかった。

 同年10月から志村は端役として『全員集合』の舞台に立ち、12月8日に「見習い」として正式に名前が台本に載った。その日は『猿の惑星』を元ネタにしたコントが行われ、志村は猿のマスクをかぶって登場した。いかりやとすれば、4ヶ月の試用期間中に舞台慣れさせながら、ドリフにおける志村の役割を見極めようとしていたのだろう。

 その間、脱退が決まって吹っ切れたのか、荒井が目覚ましい活躍を見せる。残り半年になって荒井のやる気が漲みなぎりはじめたというのは、彼らしいエピソードだ。「なんだ、バカヤロー」「ジス・イズ・ア・ペン」などのギャグが大いにウケ、いかりやは荒井の気が変わるのではないかと期待したほどだった。

 世間に対する発表の準備は極秘裏に進められた。渡辺プロの内部でも事前に知る者は少なく、TBSの担当者も発表の直前に聞かされている。1974年3月9日、『全員集合』の後半のコントが終わり、メンバー5人がステージに横一列に並んだ。そして、いかりやがおもむろに口を開いた。