駅から10分もしないうちに田園地帯に…田んぼの中にはぽつんとたたずむもの
そして駅から10分も歩かないうちに、住宅地は途切れて田園地帯に入る。田んぼの中にはぽつんと大谷吉継の首塚なるものもあった。
大谷吉継は石田三成の盟友として西軍に属して関ヶ原で戦い、敗れて腹を切って果てた。そののちに家臣が首を抱えてこの地に逃れて埋めたのだとか。いろいろな恨み辛みが残っていそうな首塚ではあるが、田んぼの真ん中だからあまり悲愴感はない。
もうひとつ、田んぼの中にあったのが下多良神社という小さなお社だ。どこの町にもあるような何の変哲もないお社なのだが、由緒が書かれた説明書きを読んでみると、以前は違う場所にあったが新幹線がその境内地を横切ることになったので移転したとある。
寺社仏閣の境内地が鉄道によって分断された例はいくつかあるが、米原もそうした例のひとつだったのだ。だからどうということはないが、このお社の前の道は細いながらも古めかしいお屋敷や郵便局などがある風情のある道筋。米原の町は、このお社の門前町がはじまりだったのだろうか。
東口に移ると…
このあたりで、ちょうど米原駅の北側で線路を跨ぐ陸橋があったので東口に移ることにした。あいにく陸橋は歩道だけが使用中止になっていたが、真下に線路をくぐるガードがあったのでそれを抜ける。
東口の駅前広場の脇に出ると、最初に目に入るのは圧倒的な存在感で駅前に鎮座する米原市役所だ。真新しいその設えからは、最近建てられたばかりなのだろうと推察できる。
ほかは……まあ想像通り、何もない。駅前には国道8号が通っていて、その先には山が迫っている。山の上にはかつて城があったのだろうか。その辺はよくわからないが、米原駅の東口はすぐ山が迫る場所にある。
それでもいちおう、とばかりに国道を渡って山に向かって歩いてみることにした。すると、国道や新幹線などと並行に南北に伸びる、実に細い道があった。道沿いに並んでいるのはいかにも古めかしい木造家屋。何か風情があるのでしばらく歩くと、北国街道と中山道の分岐点であることを示す小さな碑が建っている。
北国街道は中山道から分かれて北陸方面を目指すかつての街道で、いわば今でいうところの北陸本線、北陸自動車道をイメージしてもらえればいいだろう。中山道は東海道と並ぶ東西連絡の大街道だ。実際には中山道は米原駅周辺よりも山側を通っていたのだが、近接する米原の地が事実上の中山道・北国街道の分かれ目になっていたというわけだ。細い道はかつての街道の宿場町である。