《深緑豊かな嶺々が大きく、羽でも広げたように、左右に雄々しく展開しており、その峰々を額区にして、あくまでも透明なコバルトブルーの海が広がり、奥深く変化に富む入江が何個所にも亘って形成されている様は、まさに自然美の最たるものである(中略)茅ぶきの大きな家が軒を連ねて立っている集落の様相は、まさに一幅の名画でも見ているようであり、感激の極みであった》
看護師の免許を持つ妻・ヨシさんと一緒に、診療所で働き始めた西田さん。しかし島に医師はおらず、一定以上の医療行為ができるのは自分だけ。初期の頃は思うようにいかない日々が続いた。
「免許を持っていない医者は信用できない」
西田さんは内科や外科のみならず、眼科や皮膚科、耳鼻科など全ての疾患に対応せざるをえず、《正規の医師であっても全科の診療はむずかしい。ましてや吾々医介輔に於てをやである》とこぼしてもいる。
現在、阿嘉島で介護ヘルパーをしている仲村竹子さんによると、医師免許を持たない医介輔で、東京出身の西田さんに対する厳しい目線も当初はあったという。
「『免許を持っていない医者は信用できない』『内地の人は口ばかり』という評価も正直あったんですよ。それでも、だんだんみんなから『神様』と言われるようになってね。『西田先生じゃないと私は診られたくない』という人もいたくらい。どんな患者さんに対しても、真面目に、真剣に取り組む姿勢が、そう感じさせたんでしょうね。
西田先生の机の手元には大きな医学書が置いてあって、どんな病気でも必ずその本で確認しながら診療していたの。その本には赤や青の書き込みがたくさんあって、手垢で汚れていましたよ」
重責から《急激に痩せていったのである》
当時の西田さんも、日々増していく島民からの信頼は感じていた。しかし島民の健康を一手に引き受ける責任の大きさは、想像以上だった。
《助けることの出来ない己の不甲斐なさ、無力さに、私自身懊悩するばかりであった。そうした思いが強烈なストレスとなって、胃部に異常を来すこととなり、食欲不振、胃部のもたれ感や胃痛などが出現し、急激に痩せていったのである》
一度は東京に帰って療養生活を送ったが、自分を頼りにする島の人たち、そして家族の存在が西田さんを島に引き戻し、支え続けたようだ。
《人情豊かな村人たちの温かい支援を受けて、ようやく、私たちは、立ち直ることができた(中略)もう迷いはない。この愛しい妻子のためなら、どんな犠牲を払ってでも、護り抜いていく覚悟を、固く決意したのである》
台風で大荒れだったある日、こんなことがあった。