いまでこそセカンドオピニオンは当たり前の世の中だが、当時は事情が違っていた。その上、自分は医介輔であり “医者ではない”。医師免許を持つ隣島の派遣医の顔を潰すことになるという懸念もあったことだろう。
それでも診察をしたところ、その症状はかなり深刻だった。
2日間の絶食、点滴… 赤ちゃんの体調は?
貧血や頻脈、手足の冷感、筋肉の弛緩などを確認した西田医介輔は、重度の消化不良が引き起こされていることを疑い、那覇の小児科の専門医に診てもらうよう両親に伝えた。すると両親は、こう言って阿嘉島での診療を求め、懇願した。
《私の手では治すことはできませんと答えたところ、「先生が診てくれて、それでこの子が治らないなら、この子の運命はそれまでと思って私ども夫婦は諦めますので、どうか先生診てやってください。那覇に連れて行けと言われても、自分たちには那覇に連れていくだけの力がありませんので、すみません」と涙ながらの話となり、余計に困ってしまった》
沖縄では本土復帰前、国民健康保険の対象外で制度が整備されておらず、多くの住民は医療費を全額自己負担していた。当時の離島の住民にとって、診療所のほかに那覇の病院で診てもらうことは、ただでさえ安くはない診療費がさらにかさむ上、往復の交通費や滞在費がかかるなど経済的負担があまりに大きかったのだ。
小児科の専門医でもなければ、医師免許も持たない西田医介輔だが、またしても子を思う親心に応えようと決意した。その日から2日間の絶食、点滴を施したほか、嘔吐しないよう、食べ物として流動食、つぶし粥、おかゆ、野菜を徐々に増やして与えるなど細心の注意を払った。その結果、体温は正常に戻り、嘔吐もなくなり、赤ちゃんの体調は改善したのである。
阿嘉島で働くことになった「愛の物語」
《沖縄の無医地区に於て、医師でも無い私如き者が、「医介輔」という職名のもと、医師に代わって、医療行為を多年に渡り実施して来たことは、見る人から見れば、ナンセンスかも知れないが、当事者の私としては、正に命がけの任務遂行であった》
医師免許を持たない「医介輔」として医療行為を続けてきた葛藤と、危険にさらされながらも体を張って島の健康を守り続けた西田さん。38年に渡る離島診療所での勤務を終えた西田さんは、退職時に寄せた回想記で以下のように離島での生活を振り返っている。
《離島診療はまさに命がけの仕事でもあったのである(中略)心労と負担過重のため健康を損なうおそれすらあり、何度辞めようと思ったことか測り知れない(中略)しかし私は医介輔になって良かったと思っている。人間としての生き甲斐をこの職を通して深く知ることができた》
ところで、西田さんは東京出身である。遠く離れた沖縄の阿嘉島で、医介輔として働くことになったのはなぜなのか。そこには、戦後の混乱と、そこで知り合った妻との愛の物語があった――。
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