アメリカ統治下時代から38年間、沖縄県阿嘉島などで、島で唯一の医介輔※として医療を支えた西田さん。医療設備や搬送手段に乏しい阿嘉島での日々は、「#1」で報じたように悪戦苦闘の連続だった。
沖縄の離島医療に半生を捧げた西田さんだが、実は東京出身。原稿用紙254枚の「自伝」にも、初めて沖縄に向かう船に乗った時の心境について「いつになったら東京に帰れるのだろうか、1日も早く目的を果たして母や弟妹の面倒を見たい」と本音を漏らしている。
ではなぜ、彼は38年もの間、沖縄の離島へ移り住み、島を支え続けたのだろうか。きっかけは、戦時中の陸軍病院での“運命の出会い”だった――。
※戦後の沖縄で深刻な医師不足解消のため設けられた医療職。当時の琉球列島米国民政府が、日本軍の衛生兵など医療業務経験者に対して資格を与えた
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初年兵は「毎日ビンタで明けビンタで暮れる」
西田さんは、20歳になった1943年に徴兵検査に合格。体重不足気味だったため、水道水を腹いっぱいに飲んで検査に向かったという。衛生兵として入隊したが、初めの3カ月は、当時の満州国の首都・新京の第675部隊で初年兵教育を受けた。
《吾われ初年兵の日課は毎日ビンタで明けビンタで暮れるのが日課であった。ビンタとは、相手の顔面を「平手」又は「拳骨」時には、革で出来てる「スリッパ」で殴打することを言うのであるが、動作が遅いと言ってはビンタ、声が小さいと言ってはビンタ、集合がおそいと言ってはビンタ、掃除が遅いと言ってはビンタ、敬礼の仕方が悪いと言ってはビンタ、衣類の整理整頓が悪いと言ってはビンタ。又、うっかりして上衣のボタン一つ、掛け忘れていようものなら、連続往復ビンタは当たり前であった》
西田さんは《都会育ちのため、体力が無い》ため、特に“ビンタ”の標的になったようだ。
中国側から日本陸軍病院に救護要員の依頼
耐えに耐え、ようやく初年兵教育が終わり、当時満州にあった新京第一陸軍病院に配属された。血液や尿などの検体について詳しい検査をする病理試験室での勤務が始まったのだが、その1年後、日本は終戦を迎える。
西田青年は旧ソ連軍の捕虜となり、収容所に向けて乗せられた貨物列車から脱走。2日かけて線路沿いを歩き続けて戻った陸軍病院の廊下の床下に匿われるなど、緊張の続く日々を過ごしていた。
そうしたなか、中国国内で内戦が勃発する。
中国側から日本陸軍病院に救護要員の依頼があったのだが、この要員確保の際、「妻子ある者は要員から除外する」という決まりだった。そのため、「早く日本に引き揚げたい」「要員確保されたくない」と考えた衛生兵たちは、こぞって院内の女性看護師と「偽装結婚」したという。