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《「この村の人を助けて」という言葉には、私は弱い》

《「この村の人を助けて」という言葉には、私は弱い。何故なら、私共家族が今日あるのは、すべて、この村の人達の温かい物心両面からのご支援、お世話を頂いた賜物であり、その有難さは肝に銘じている。したがって、私に出来ることなら、何んでもやって、ご恩に報いないといけないのである》

 試験の日まで、残り2週間。陸軍病院から持ち帰っていた1冊の医学書を頼りに、西田さんは猛勉強し、見事合格を果たした。

 こうして「#1」で報じた日々が始まったのだ。

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 そこから26年。妻・ヨシさんが2017年に他界した。看護師として、そして妻として自らを支え続けてくれたヨシさんへの想いを、こう綴っている。

《夫として、同じ医療人として、何一つ報いることができなかったことについて、心の底から「済まなかった。ごめんね」と詫びるのみ。(中略)いつの日か、必ずあなたのあの積年の苦労に対して、報いるよう心がける考えですので、しばらく待っていてください。本当に永い間ご苦労様でした。有難う。本当にありがとうございました》

西田さんに関する資料(遺族提供)

「西田先生は素晴らしい先生だった」

 それから2年後、西田医介輔は2019年にその生涯を終えた。西田さんは「自伝」にこう記している。

《沖縄の医師不足に対応するための医介輔制度に便乗した形の私の半生は、自治医大出身の若い医師達の配置により、ようやくその役目も終わりを迎えようとしている(中略)医師でもない者が、医療に従事していたことを、どう見て、どう結論づけるのか赤裸々な批評を、拝聴してみたい》

 現在も、西田医介輔が勤めた阿嘉診療所は島唯一の医療機関として医師、看護師、事務の3人体制で地域を支え続けている。診療所長の長田健太郎医師は現在32歳。初代の西田さんから数えて、14代目の阿嘉診療所長だ。

現在の阿嘉診療所を支える3人。真ん中が長田健太郎医師(筆者撮影)

 2021年2月に60年の時を経て見つかった西田さんのカルテを前にこう話す。

「所見、診断、治療と、現代の医療に携わる立場から見ても系統だった勉強をされていたことが分かる内容です。インターネットなど情報を得るのに便利な手段もなかった当時の環境下で、相当な努力をされたのだと思うと唖然とします。

 今でも島民の方から『西田先生は素晴らしい先生だった』『西田先生の時にはこんな時にこういう薬を出してくれた』など、当時の話を耳にすることがありますよ」

 西田医介輔の想いは、いまだ阿嘉島に生き続けている。

その他の写真はこちらよりぜひご覧ください。