いつになったらここに「私」が登場するのだろう?

 河瀬直美監督『東京2020オリンピック SIDE:B』を観ながら、筆者の頭のなかには、いつしかそんな問いが浮かんでいた。

 おもに出場選手たちにキャメラを向けた『東京2020オリンピック SIDE:A』について、筆者は、「ここには決定的な他者の存在が欠落してはいないだろうか?」と書いた(「海外で賞賛、日本で批判…河瀨直美の評価はなぜ国内外でズレているのだろうか」)。選手たちをとらえるキャメラの視線にはっきりと作り手=「私」の存在が刻印されているのとは対照的に、五輪反対を叫ぶ市民たちはどこまでも彼岸の群衆としかとらえられない、つまりそこに「私(たち)」が存在しないこと——この点が、筆者が『SIDE:A』に抱いた最大の違和感だったが、だとすれば選手を取り巻くひとびと(もちろんそこには五輪反対を訴える市民も入るはずだ)にキャメラを向けたという『SIDE:B』は、この「私」と「私たち」をめぐる乖離を乗り越えることをこそ標榜した映画になるのではないか。そう考えて、筆者は試写に臨んだ。

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 が、映画を観るうちに、筆者のなかには嘆息とも怒りともつかない感情が沸き起こってきた。

主役は森喜朗とトーマス・バッハ

 結論から書く。この映画の主役は、どう考えても森喜朗とトーマス・バッハである。

 というか、これほど臆面もなくこの二人をフィーチャーするつくりになっていることに、まず驚かされた。皮肉でもなんでもなく、「喜朗とトーマス ぼくらの東京オリンピック」というタイトルが付されていたとしても、おそらくまったく違和感はなかっただろう。

河瀬直美と五輪組織委(当時)の森喜朗、武藤敏郎 ©️共同通信社

 そういう印象をもった理由は簡単で、作り手の「まなざし」がつねにこの二人に寄り添っているからである。

 批判を呼んだNHKのドキュメント番組「河瀨直美が見つめた東京五輪」のなかで、河瀬監督から一般市民の撮影を依頼されたスタッフの島田角栄氏が「バッハ会長を撮影するときの河瀬さんのキャメラの距離が近すぎる」ことを危惧する場面があったが、単に物理的に近いだけではない。いや、たとえキャメラが至近距離から撮っていたとしても、その視線は必ずしも対象に寄り添っているとはかぎらない。作り手の意識ひとつで、それは「追及のまなざし」にも「疑問のまなざし」にもなりうる。しかし、この映画において、その「まなざし」は、森氏やバッハ氏を相対化しうる距離、すなわち批評的視座を獲得するには到っていない。