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対話不能で不気味な集団として描かれるデモ隊

 バッハが「対話を試みる」場面でも、それ以外に何度かデモ隊の姿が映し出される場面でも、参加者たちの顔には終始ボカシがかけられている。つまり、デモ隊に参加しているひとびとが、一人ひとりどのようなバックボーンをもち、いかなる動機でそこに参加しているのかはさっぱりわからない。

 それどころか、この映画に登場する五輪反対派(と言いきれる)の市民のなかで、顔と名前が明示されるのは演出家の宮本亜門ただ一人と言ってもよい。

 五輪反対派といえど、そのなかには当然さまざまな人間がいる。デモに参加しているひと、デモには参加しないがSNS等で反対の意思を表明しているひと……その意見にもグラデーションの濃淡がある。

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 しかし、そういう個々のちがいはこの映画からはいっさい窺い知ることができない、ばかりか、対話不能で不気味な集団として一方的に描かれている。

 ニュース番組などで一般人の顔にボカシがかけられることが珍しくなくなった昨今では、あまり違和感をもたれないかもしれないが、ドキュメンタリー映画において、被写体の顔にボカシをかけるという行為は、一種の「表現の死」を意味する。筆者自身、学生時代からいくつかのドキュメンタリー映画に携わってきたが、いかに重要な証言であろうと、ボカシをかけなければならない必要性が生じた時点で、その映像を使用することじたいを断念したケースが幾度もある。それは、ドキュメンタリー映画がニュース番組のような情報伝達を一義的な目的としたメディアとは決定的に異なり、個々の人間の存在=「私」の明示にこそ表現の主体性を見出しているからである。冒頭に書いた「いつになったらここに『私』が登場するのだろう?」という筆者の疑問もそのことに起因している。

河瀬直美 ©️AFLO

 五輪に反対する市民が「顔」を剥奪される一方で、映画は、幼い子どもたちの「顔」を随所に挟み込む。あたかも「醜い」大人たちを尻目に五輪に熱狂する純粋な魂の象徴のごときそのシークエンスには、しかし幼少時から五輪によい感情を持っていなかった筆者のような子どもの存在はやはりあらかじめオミットされている。