あの「女性蔑視発言」の描かれ方に疑問
映画は、五輪開催に向けたひとびとの動向を時系列のカウントダウン形式で描いていく。新国立競技場のデザイン選定をめぐる茶番劇や聖火リレー中のトラブルなど、触れられていない事象の多さが気になるが、森喜朗のあの女性蔑視発言についてはそれなりの時間が割かれている。しかし、その描かれ方には首を傾げざるをえない。発言をめぐるシークエンスは、基本的に森氏本人へのインタビューを軸としているが、そこでの森氏の口ぶりは、「俺が責任を取ることでオリンピックが成功するのなら、喜んで身を引こう」というような「潔い私」をことさら打ち出しているように感じられる。あげく、森氏の傍らにいた丸川珠代五輪担当相がその「潔い」姿に思わず涙、などという場面が映し出されるにいたっては噴飯ものとしか言いようがない。
一応、「軽率だった」「ありえない」といった批判の声も挿入されるが、一連の流れを「森さんの発言が結果的には日本の問題を広く周知させる効果をはたしたのではないか」という言説に落とし込むのはいささか詭弁が過ぎやしないか。森氏の発言がはらんでいる問題の愚かしさなど、べつに森氏に実際に発言してもらうまでもなく明白なことなのだから。
「バッハ会長は対話を試みた」という欺瞞
一方、バッハ氏をめぐる描写でとくに印象に残るのが、都庁前で五輪反対を訴えるデモ隊に氏が接触する場面だ。
映画では、バッハ氏が「彼らと話したい」と言ってデモ隊に近づき、参加者の一人である女性に対して「対話をしたいので、マイクを下げてくれ」と語りかけるが、女性はそれに応じず、諦めたバッハ氏がその場を去る、という様子が映し出される。
いったい作り手はどのような意図でこの場面を映画のなかに入れ込んだのだろうか。映画を観るかぎり、その答えは「バッハ会長はデモ隊との対話を試みた」ということを強調しようとしたとしか考えられない。しかし、待ってほしい。「オリンピックを中止すべき」と訴えているデモ隊のもとに、突如バッハ氏が五輪の関係者や映画のキャメラを伴って現れたとして、なんの警戒もなく対話に応じることがはたして可能だろうか。
ここでバッハ氏が虚心坦懐に五輪反対派の声に耳を傾けようとしたことを疑うつもりはない。だが、いきなり往来でバッハ氏が関係者一同を引き連れて現れた、というシチュエーションを考慮せず、「バッハは対話を試みたが、デモ隊は感情的にがなり立てて、それに応じようとしなかった」という画を見せることは、映画のつくりとして著しくアンフェアであると言わざるをえない。