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「まちこわし」の祭典としての東京五輪

 この映画のいまひとつの問題は、五輪に反対する言説の依って来る理由を、コロナ禍のみに還元していることだ。

 実際には、コロナのコの字も聞かれなかった頃から明確に五輪反対の意思を表明していた人間は大勢いたはずである。

 たとえば、大会招致にあたって、安倍晋三元首相が口にした「アンダーコントロール」ということば。映画では、被災した福島の風景も映し出されるが、たとえばそこで語られる当事者のことば(筆者も製作に協力した島田隆一監督のドキュメンタリー映画『春を告げる町』〔2019年〕同様、ふたば未来学園が登場する)を受けて、「復興とはなにか」という本質的な問いに到らなければ、わざわざあの恐ろしい津波の映像を引用してまで福島の被災に言及した意味がまるでない。

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 そもそも、オリンピックが「まちこわし」の祭典という側面をもつことに対する批評的視座をこの映画は欠いている。

 映画作家の故・大林宣彦は、自身の故郷である広島県尾道市をはじめ日本全国の地方都市を舞台とする「古里(ふるさと)映画」の製作をライフワークとしたが、それは俗にいう「ご当地映画」とは一線を画するものだった。実際、大林は自作の舞台となった場所によくある観光用の立て看板を取り付けるような風潮には一貫して批判的であり、『男たちの大和/YAMATO』(2005年、佐藤純彌監督)のロケセットを「客寄せ」に使った姿勢を批判して故郷尾道市と長く「絶縁」していた時期もあった。大林にとって、「古里」とはひととまちとが有機的なつながりをもつことで初めて成立するものであり、それゆえに行政やデベロッパーが主導する歴史的・風土的グランドデザインを欠いた都市開発を「まちおこし」ならぬ「まちこわし」であるとして鋭く批判してきた。

「心のなかの風景」を奪うということ

 思えば、1964年の第1回東京オリンピックも、紛うことなき「まちこわし」の祭典だった。

 1952年に東京の木挽町で生まれたなぎら健壱は、こう書いている。

〈(オリンピックのあと)東京が疵つくという後遺症が残った。かつての東京は無残な姿になったという後遺症が……。東京オリンピックを境に、確かに東京は大都市にふさわしい顔を持ったかのようであったが、実は体裁だけでもって、とんでもない街になってしまったのである。そのデタラメさは明らかに人災である〉(『東京路地裏暮景色』ちくま文庫)

 64年大会の公式記録映画である市川崑監督の『東京オリンピック』(1965年)は、巨大な鉄球をもちいて古い建物を取り壊す場面からはじまる。その光景をネガティブにとらえるか、ポジティブにとらえるかは人それぞれだろうが、市川崑は五輪が「まちこわし」の祭典であることを明確に意識している。

 建築史家の宮内嘉久は、64年の五輪を都市の風景が変貌しはじめた「時代の潮目」としたうえで、「外の風景とは別に、人それぞれの内側にはさまざまな風景が映っている」と書いた。

 「風景」とは、ただ漫然とそこに存在しているのではない。そこにはその場所にくらすひとびとの心のなかの風景が投影されている。「まちこわし」とは、そういう心のなかの風景までも、容赦なく、跡形もなく破壊しようとする所業なのである。