言語伝達的かどうかという二分法の、あいだにあるとも言えるし、二分法からこぼれ落ちてしまう声(注5)。フライングになりますがあえてこの時点で言っておくなら、それは「クィアな声」と言いうるものです。クィアという用語は、現代ではもっぱらセクシュアリティの議論において用いられるものですが、端的には「二項対立に収まらず、それを解体する様態」を示します。
このように、米津玄師は「音楽に使う声はここからここまで」と世の中が通念的に設定している範疇を軽く乗り越えて、あるいはその範疇を自明とせず無視しながら、さまざまな声に対して音楽となる機会を開放しているのです。
注1 1オクターヴを12音の半音で構成するとしたときに、中心音(トーナルセンター)と、それに関係づけられた従属音とを選び抜いたもの。たとえば長調(いわゆるドレミファソラシド)は、ドを中心とする代表的な調性のひとつ。この場合、12音のうち5音を阻害しているとも言える。調性は西洋音楽の根幹的概念である。
注2 録音した音声を、音楽の素材として活用すること。機材が低価格化した90年代以後にはごく一般的な手法となった。
注3 「ゴーゴー幽霊船」の「あんまり急に笑うので」などもその範疇の内である。
注4 80年代、ラップが「うた」になったことは革命であり階級闘争でもあった。調性内的な「うた」を操るんいは教育が要り、格差がそれぞ阻む。ラップはその参入障壁を破壊した。
たとえば大和田俊之『アメリカ音楽史』(講談社選書メチエ、2011年)はラップを「うた」ではなく「語り」だとしているし、解釈依存的な部分もある。しかしどちらにせよ、ラップはずいぶん以前から大衆音楽である。1994年時点で、ニューヨーク・タイムズ紙の「How pop music lost the melody」という記事はラッパーのスヌープ・ドッグを論じている。
注5 ボカロの声に慣れない上世代の人にとっては、いまだボカロの声もそうであるということを指摘しておく。