音楽から疎外された声、クィアな声
さて、本講義は、ボーカロイド音楽の本質、さらには、そのことを通して「うた」の本質に迫ることを目標としています。シラバスには「永きにわたった人類による「うた」の私有が終わった」と端的に書きました。これはボカロの登場を踏まえた書き方ではあるんですが、ここで、みなさんに少し考えてみてほしいと思います。
そもそも、あらゆる人の声が、音楽になることを許されてきたでしょうか? 「うた」であることは、多様な声の中でも、一部の声に独占されてきてはいないでしょうか?
ではどんな声が「うた」とされてきたでしょうか。ここで、ふたつの条件によって声を4種類に整理してみましょう。(画像を参照)
ひとつの条件は、メロディを歌っているのが明らかであるかどうか。調性内的かどうか。
もうひとつの条件は、言葉を伝えているかどうか。言語伝達的かどうかです。
(1)は、メロディも歌詞も明瞭な声。もっともわかりやすく「歌声」と公認される声でしょう。(2)もよく音楽に登場します。ラララ、ルルルというハミングなど、コーラスにはよくありますよね。歌詞が伴っていることは必ずしも「うた」の条件ではない。
(3)は、必ずしも音程を伴っていないけど、言葉を伝えている(注3)。これはとっくに、音楽を構成することを許された声です。ラップ(注4)がそうですよね。あるいは、音楽に乗せたポエトリー・リーディングもこれに当たります。
そして(4)です。この表の中では、もっとも音楽から疎外された声と言えるでしょう。メロディもないし言葉を伝えているようでもない声。
では考えてください。「ウェッ」はこの4つのどれに当たりますか? (4)ですよね。この意味において、米津玄師は、疎外された声を音楽に持ち込もうとしているわけです。
さらに加えて言いたいのは、「砂の惑星」「ドーナツホール」イントロにあった、なにを言っているかわからない声についてです。
ポイントは、これが「言語伝達的かどうか」はイエスともノーとも言えないことです。えずきやうめき声なら、言葉をなにも言っていないことがわかる。それがわかるから怖くない。しかしこの「なにか言っているようでもあるけど言っていないかもしれない、わからない」という声は、えずきよりもずっと「怖い声」ではないでしょうか。