今年8月31日に音声合成ソフト「初音ミク」が15周年を迎える。かつてインターネット上を中心に盛り上がりを見せていた「ボカロ」音楽は、今や米津玄師やYOASOBIの大ヒットによって、J-POPを語る上で外せないものとなった。
ここでは、2016年から東京大学教養学部にて開講されている講義「ボーカロイド音楽論」を再構成した鮎川ぱてさんの著作『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』より一部を抜粋。キャラクターとしての初音ミクの位置づけについて紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)
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「サーバルちゃんは分裂している」から近代的である?
ここで寄り道して、キャラクター論をやってみたいと思います。この講義はキャラクター論がメインではないので、いまのうちにささっとやろうかなと。前回も同じこと言っていますがw
キャラクターは、なにによって表象されていますか。たとえばアニメのキャラクター、サーバル(注1)ちゃんは、なにとなにを足し合わせることで成立していますか?
学生「声と、姿かたちですw」
ですよねw その通りだと思います。
描かれたイラストと、それと無関係な人間の声。そのふたつを足し合わせたものを、キャラクターと言っている。我々が良くも悪くもひとつの身体によって統合されているのとは違って、分裂したふたつの要素を足し合わせたものがキャラクターです。
そこに人格的なものを見出す想像力は、普遍的なものでしょうか。100年前の人に『けものフレンズ』(注2)を見せて、そこで演じられていることを理解できますかといったら、少なくとも全員には無理なのではないかと思います。
なぜなら、そもそも分裂しているからです。絵と声を足し合わせたものに人格を見出すという「想像力のルール」は、現代人の我々の多くは当たり前に(注3)共有できているとしても、それは文化的なリテラシーにすぎず、決して普遍的なものではありえないのではないでしょうか。
また、絵が一貫しているのに、第1話から3話までの声が4話からいきなり変わったら、それを同じキャラクターだと見なせるでしょうか。昔、ドラえもんの声を担当する声優が代替わりしたときに、新しく声を当てられたドラえもんを「ドラえもんと見なせない」という人がたくさんいました。あるいは、声が同じ声優さんでも、話し方が極端に変わったらどうなるでしょうか(注4)。