だからこそ、そのキャラクターを表現するには、それが統一された個体で、分割不可能=インディビジュアルなものであることを強調する必要がある。インディビジュアル概念をベースにした我々の想像力がそれを理解できるように。キャラクターには、現実の人間以上に、インディビジュアル性、すなわち近代的一貫性を後づけしてやらなければいけない。
結果、キャラクターという概念自体が、近代性に積極的に収まっていこうとする指向を持つことになる。この点をもって、キャラクターという概念は近代的なのだ、と言うことができます。
さらにそもそも論で言うと、キャラクターというのはどういう意味でしょう。英単語としては、性格のことですよね。せっかちだとか、おっちょこちょいだ、遅刻魔だとか。こういう形容詞的な傾向的特徴は、そもそもどういうものでしょう。
遅刻魔#とは。遅刻魔という言葉単体が示すものは、遅刻をするらしいぞということだけですよね。じゃあ、10回約束したうち何回遅刻することを遅刻魔と言うでしょうか?
学生「7回くらい、ですかね」
7回くらい。なるほど。ということは10回約束して6回遅刻しても許容してくれると──きみは優しいですね、みんな友達になったらいいと思いますw
ちょっと禅問答のように感じたかもしれないけども、こういう形容詞的な特徴というのは、そもそも、現実に10回約束したら7回遅れるくらいだという事実があって、それを圧縮した=エンコード(注5)したものとしてあるでしょう。
つまりいまの問いは、一度抽象化された形容詞を「デコードしてみて」と訊いたわけです。形容詞的特徴は、その人の現実的な振る舞いと循環関係にあり、それを縮約したものとしてある。
現実世界の中では、AR(注6)的に「遅刻魔」と空中にサインが出るわけではありません。新しい友達であれば、付き合っていくうちに「なんかこいつ毎回言い訳するけどいっつも遅れてくるなあ」ということが起こって、それの縮約として「あいつは遅刻魔」という理解が成立する。だから、現実世界では本来、キャラクターは先行しない。
だからこそ、とくに純文学の世界では、キャラクター先行型の創作をちょっと見下すところがあったと言われています。それは「リアルではない」と。人は、性格があるからそうするのではなくて、現実の行動だけがそこにあるはずである。
アニメやライトノベルでは、冒頭から主人公自身が「私、ぱて子! あわてんぼうの14歳!」など自分の性格を宣言する作品もありますが、ある種の保守派はそういうのが大嫌いだったりすると聞きます。日本近代文学の初代天皇みたいな人も「親譲りの無鉄砲(注7)」というキャラ宣言で始まる小説を残してますけどねw
評論家でマンガ原作者でもある大塚英志(注8)は、『キャラクター小説の作り方(注9)』という著作で、タイトルの通り「キャラクター小説」という概念を提唱しました。乱暴に要約すると、キャラクターの造形さえよければ面白い小説が書けると。つまり、キャラクターを先行して発想することを肯定していく創作論を立ち上げました。
多くのラノベ作家が大塚の影響を受けたと言われています。直接の影響関係はわかりませんが、小説を発表したこともあるボカロPのcosMo@暴走P(注10)も、同様のキャラクターありきの創作論の立場を表明しています。
ぼくはどちらかの立場を支持するというものではありませんが、キャラクター先行型の表現は、純文学的自然主義という既存のオーソリティに対抗するアンチでありポストだったのだ、ということを指摘しておきます。