初音ミクは「ポスト・キャラクター」である
キャラクター論からさらに小径に入って、ある具体的なキャラについて考えてみましょう。すなわち、初音ミク論です。ここまでに説明した概念を使うと、初音ミクはどう説明できるでしょうか。
ぼくの仮説を一言で言います。初音ミクは「徹底的に対他的である」。
ミクについて、開発元のクリプトンが公式設定として発表しているのは、16歳、身長体重など、ごくかぎられた設定(注11)のみです。その制限の少なさが、クリエイターたちの自由な想像力を惹起して、豊かな二次創作(UGC(注12))が生まれた。このような説明はボカロカルチャーの一般論として何度も繰り返されてきたものです。
これを、ミクを主語にして考えてみましょう。ミクは、その人が望むミクにつねになる。求められれば、おてんばなミクにもなれるし、すごくクールでスタイリッシュなミクにもなれる。
「ミクはこうでなければいけない」という定式があって、それと矛盾するミクは存在してはいけないというルールはない。ミクは「自分を使う人/描く人」という他者に対して必ず感応するものとしてある。それは外形に関しても、内面に関してもそう。さらには、声に関してもそうです(注13)。他者の欲望に完全依存した存在であると言えるでしょう。
緑髪のツインテールはミクを示すわかりやすい視覚記号の代表格ですが、これもあくまで可変のものです。音楽ゲーム「初音ミクProject DIVA(注14)」の中ではポニーテールにしていることもあるし、雪ミク(注15)では髪色は水色になります。公式の企画でさえどれかの要素を絶対とはしていない。
また、楽曲やイラストで、自分があるミクを存在させているとき、ほかの人も同時に別のミクを表現して存在させることができる。同時にふたつ以上のミクが存在するっていうことも許容されている。つまりミクは、遍在することができる。聴くという行為もそこにミクを存在させることだ、と言うことも可能でしょう。世界中の多くのリスナーが、ボカロ曲を聴くことでたくさんのミクを同時に存在させている。
なのでこの点をもって、ミクは「分祀(ぶんし)分霊ができる神道(注16)の神のイメージに近いのである」という言い方がしばしばなされます。これはぼくのオリジナルの説ではなくて、すでにネットでいろんな人が言ってます。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)の霊は伊勢神宮にも皇居の中の賢所(かしこどころ)にも、別の神社にも祀まつられているけれど、そのどれもが本当の天照大御神の霊であり(注17)、そのように分けて祀ってもいいというのが、神道における分祀分霊という考え方です。
この考え方を借りて付言したいのは、ミクもまた「dividual=分割可能」であるということです。同時に複数の個体になりうるし、それぞれに別のあり方を人が想像しても、ミクという概念はそれらすべてを許容することができる。なので、初音ミクはインディビジュアルではない。
この点において、ミクはキャラクター的想像力と衝突するわけです。インディビジュアルであることを強調せざるをえないのがキャラクターの条件だとするなら、ミクは、その条件をひっくり返してしまっている。だから、ミクはアンチ・キャラクターなのだ。そう言えそうですが、言ったそばから表現をアップデートするなら、ぼくはミクは「ポスト・キャラクター」であると考えます。
どうして単純にアンチ・キャラクターではなくて、ポスト・キャラクターと言うべきか。そのようなミクを許容できる想像力は、キャラクター的想像力が浸透した文化圏においてではないと成り立たないものだから。つまり、キャラクター的想像力以後のあり方として実現するキャラクターだからです。