本稿では『時をかける少女』(特に1983年、2006年、2010年版3つの映画)の重要な部分に触れています。
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芳山和子。『時をかける少女』の主人公の名前だ。『時をかける少女』の原作の連載が開始されたのは57年前の1965年。原作者は筒井康隆だ。その後、最初の映像化であるドラマ『タイム・トラベラー』(1972)を筆頭に、これまでに9回も映像化されている。
それぞれの映像化はそれぞれに個性的だが、今回は9作品ある映像作品の中から、1983年の大林宣彦監督版、2006年の細田守監督版(本作はアニメ作品である)そして、2010年の谷口正晃監督版を取り上げ、比較をしたいと思う。
どうしてこの3作品を取り上げるかといえば、細田版、谷口版ともに原作小説と大林版を念頭においた上での“続編”だからだ。そこからは必然的に、芳山和子というひとりの女性の人生が浮かび上がることになる。
原作小説『時をかける少女』は、土曜日の実験室で人の気配を感じた芳山和子が、ラベンダーの匂いをかいで倒れてしまうところから始まる。この体験をきっかけにして彼女はタイムリープ(とテレポーテーション)ができるようになってしまう。
奇妙な体験に困惑する彼女を支えるのはクラスメイトの浅倉吾朗と深町一夫たち。やがていくつかの事件を経て、彼女はタイムリープ事件の原因が、同級生の深町一夫であることを知る。彼は未来からこの時代にやってきた未来人だったのである。
大林版は、大枠で原作の内容を踏襲しつつ、ひとつ決定的な変更を加えている。
原作小説の和子は中学生。クラスメイトに「わたしは、芳山さんは深町さんのほうが好きなんだと思っていたわ」といわれて、まっかになって「そんなんじゃないのよ」と否定するような、「恋することの入り口に立った少女」として描かれている。
そんな彼女はクライマックスで、未来人である深町から、事件の真相とともに好意を打ち明けられる。しかしそうした一切の記憶は、彼の未来への帰還とともに消されてしまうのだ。
「また会いにきてくれる?」と薄れゆく意識の中で尋ねる和子。深町は、きっと会いに来るけれどその時には深町一夫ではなく「きみにとっては、新しい、まったく別の人間として……」と答える。
こうして和子はいつもどおりの日常へと。しかし彼女の中には“予感”だけが残っている。「――いつか、だれかすばらしい人物が、わたしの前にあらわれるような気がする。その人は、わたしを知っている。そしてわたしも、その人を知っているのだ」。恋を知らなかった少女が、恋を失うことで、自分はもう恋ができるということを知り、運命の人との出会いを待つようになる。そういう通過儀礼、成長の物語として原作小説はまとめられている。